[A00-0505] 宝満宮(ほうまんぐう)
神社誌№A00-0505
神社名 宝満宮(ほうまんぐう)
社格  郷社
鎮座地区筑紫郡
所在地 筑紫郡山家村大字山家字松原
メモ  
祭神神功皇后、玉依姫命、応神天皇
由緒創立不詳、宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神は勧請由来の義に在らす化現より以来降臨の本津宮にて万代不易の廟窟也と神俗共に申伝侍る其後人皇三十七代孝徳天皇(附記孝徳天皇は第二十六代なり)大化二年丙午歳神功皇后応神天皇を奉祭せりと云ふ宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神の由来を尋ね奉るに海神豊玉彦の御子玉依姫命と申奉る地神五代鸕鷀草葺不合尊の神皇后也治世八十三万六千四十二歳神武天皇を日向の国高千穂と云ふ所にて産み給ひ然後玉依姫命山家奇魂之地に入給ふと也。人皇十五代姫帝神功皇后(附記、神功皇后は天皇としては数へ奉らず)三韓退治の時当社の御神出現あり我は是神女なり名は豊姫命と申と宣玉ふ千珠満珠を父豊玉彦に偕受け官軍を助け給ふ云々とあり。
宝満宮縁起に曰く、人皇九十代後宇多院(附記、後宇多天皇は第九十一代なり)弘安四年に蒙古国入寇す時に山の形海水にうつる賊恐れて以て石ありとす或は社中より光物飛散して賊船を漂泊はす或は賊皆神罰を蒙りて船中に悪疾を憂ひて迷動し終に陸に上る事を得ず滅ひうせにけりとなん一重に当社大神の神変なりと申伝へ侍る。同後宇多院の御宇に筑前守藤原経衡と云ふ人大なる旱にあへり雨を此の神に祈る時鏡を鋳て以て神前に掛け和歌を詠して曰く「雨降れと祈る印の有るならは水鏡とも思ふへきかは」と(此歌新続古今集に見えたり)玆に於て雨降ること大なりと云ふ。
又源紹運願書を捧けて曰く大神出現於世慈念衆生猶如赤子威加四海徳播九州昔者海外異類毒乱国経以大神之威神力数拒布之朝家信敬老中使降綸綍尊為国惣社と云へり斯る尊き御神なるか故に国々所々に勧請して崇祭らずと云ふことなし云々。
宝満宮縁起一節に曰く、当社山家宝満大神は蓋し竈門大神御一体なり則ち筑前国御笠郡山家庄の県社として民生安堵の霊壇なり。
承応三年坤の歳夏四月中旬に新に御神託ましましけるにそ皆人心耳をすましたる其の年造営成就して神体遷宮祝儀を陳る中に御巫女に託て宜く我異国より帰朝して此所に鎮座すること星霜既に一千四百余歳を経て今に至りて社頭七度の造営に及ふと雖も就中今度の造営を以て神慮納受ましますことまえまただひに過たり猶も神忠を蓋さは宜敷長久を守らんとて神は昇らせ給ひしなりと。
宝満宮由来書に曰く、人皇五十四代仁明天皇の御宇承和七年四月中使を下し従五位上を授け給ふと続日本後紀に見えたり。
人皇五十五代文徳天皇之御宇嘉祥三年十月勅使を下し筑前国県夕社の神に正五位の下を授け給ふと文徳実録に見えたり。
人皇五十六代清和天皇の御宇貞観元年正月二十七日正四位の下を授け給ふと三代実録に見えたり。
宝満宮由来書の一節に曰く、人皇五十七代陽成天皇の御宇元慶三年六月八日勅使を下し正四位の上を授け給ふ。
人皇七十三代堀河院嘉承元年十月三日当御神に正一位を授け給ふ勅使は太宰権帥大江朝臣匡房也和歌を詠して奉る。
「白幣神乃威を増本津宮竈門の山もおなし和魂」幣帛を捧け此歌を奉納し給ふ于今御宝殿に有之とあり。
天正十五年小早川隆景公当国筑前を領し給ふ時当社の宝満宮は竈門山宝宮の本宮たるに依て神領一町五反の田地を寄附し給ふ(今に田の字に残れリ)然るに隆景公の養子秀秋卿の時該社領は全て没収せらるとあり。永正十八年辛巳大檀那筑紫小野守藤原朝臣満門社殿造営すと棟札あり。
承応二癸巳暦夏吉辰大檀那松原筑前守豊朝臣忠之社殿造営すとの棟札あり
天明乙巳年孟春三月吉日氏子中にて社殿を再興せりと云ふ棟札あり是れ則ち今の社殿なり十月十九日は恒例の大祭として神輿を笠懸の遥宮に渡御ありて神楽を奏し笠掛ひ式を執行し其日遷御なる此時伶人楽を奏して神輿に陪従す其の道路を音楽道と称す此の外年中の祭勢多し祠官人二十五人ありて是れを執行せしも弘治三年七月九州の探題大友二十八代の後胤左衛門督義鎮の嫡子義統と申す者邪法に溺れ神社仏閣を没倒せり。当社領も検地検断せられし故祭礼も絶え果て又社家神人等は皆農人に下れりと云ふ。
宝満宮由来書の一節に曰く、欽明天皇の御宇四月吉日選中申酉祭始と云々。西宮記に曰く延喜十五年四月中九日配祭始常云々。賀儀に葵祭有り此の祭に勅使下り奉幣を捧げ葵を以て祭らるる由所見有之云々。祭過きて其葵を大内に捧け奉る此の祭は大事なりとあり。
明治五年十一月三日村社に列せらる。明治六年九月十日郷社に列せらる。
例祭日六月十八日
神饌幣帛料供進指定昭和六年十月三日
主なる建造物神殿、拝殿、渡殿、参籠殿
境内坪数千八百四十五坪
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