[A00-0003] 筥崎宮(はこざきぐう)
神社誌№A00-0003
神社名 筥崎宮(はこざきぐう)
社格  官幣大社
鎮座地区福岡市
所在地 福岡市箱崎町字宮之前
メモ  
祭神応神天皇 相殿 神功皇后 玉依姫命
由緒人皇第十五代応神天皇、神功皇后の胎内にましまして新羅の国を征したまひて、後筑紫の蚊田の里に御降誕あらせらる。その御胞衣を筥に歛めて現社地に御埋鎮遊ばされ其の御標として松を植え給ふ。これ即標の松又は筥松にして、住吉此の地を葦津浦と云ひしも爾来箱崎と称するに至りぬ。筥松こそ本宮語創始を物語るものにて、これ箱崎の地名の起源なりとす。のち醍醐天皇の御字に至りて、太宰少弐真材朝臣、石清水八幡宮に、廻廊を造営寄進せんと立願せしに、延喜二十一年六月二十一日神託あり、すなはち「新に神宮を筑紫の筥崎に造営し宮殿を乾に向け柱に栢を用ふべし、末代に至りて異国より我国を窺ふ事あらば吾其敵を防去すべし、故に敵国降伏の字を書きて礎の面吾座の下に置くべし」と。この故を以て急ぎ奏聞を経たるに、その勅許に曰く、託宣之旨為禦来寇加之外賓通攝之境也栄(ニ)其宮殿(一)殊可(ニ)美麗(一)云云と。
延喜式を按ずるにすでに名神大社たりしも、社頭の盛衰時にまぬがれ難し。明治五年四月県社となり、同十八年四月ニ十ニ日官幣中社に昇格、大正三年一月十四日更に官幣大社列格仰せ出さる。
神木筥松につき次の古歌あり、
 千早振神代にうゑし はこざきの 松は久しきしるしなりけり。 法印行清
 跡たれて 幾代へぬらん筥崎の しるしの松も神さびにけり。 按察使顕朝
特殊祭事・三元祭 一月一日
三元とは年の始め、月の始め、日の始めの謂にして十二月十四日応神天皇の御降誕あり、大晦日は夜を徹して尊き御胞衣を埋蔵し参らせたれば、元旦には鏡餅に代ふるに海鼠を以てして、香椎の行宮に供御奉れり。このふるき例のまにまに今に至るまでこの日海鼠型の餅を献ず。
・玉取祭 一月三日
正月三日の神事にて俗に「玉せせり」とも称す。何時の頃より始まりたるものか判然せず。此の日午前九時より本宮神前に於て厳かなる御玉洗ひ浄めの式あり、其の儀玉顆に縁故ある一木、山口両家出仕の上、径尺余のニ顆の木珠を微温湯にて洗ひ浄めて筥に納め境外末社恵比須神社に供ふ。軈て神職祭典奉仕する頃ともなれば、海水に身を浄め、赤裸となりたる壮漢数百、社前に蝟集して祭典の終了を今や遅しと待機の態勢を採れり。
斯くして祭典了れば、神職の手によって陽珠一顆はこの壮漢の中に投ぜらる。
玉顆一度投せらるるや、天地を揺がす喊声と共に我先にと押し合ひ奪ひあひつつ、一進一退刻々に競争は白熱化して、極寒の空に流汗は水煙となりて立昇り、数百の肉塊は十重ニ十重に相重なり、龍攘虎搏の活劇を演ずる光景は、実に壮絶快絶の極みなり。其の起因に就いては、社説の伝ふるところに依れば、「正月三日筥崎宮の拝殿に於て、神職が石にて作れるささやかなる玉を捧げて持てる人々寄集ひて戴きけるとかや。さるを誰いふとなく彼の玉を戴けば、その年の悪事災難を遁れ運強くいとめでたしなどいひて、年々に集りくる人数殖え、果ては社前に備へたるを参詣の人々に授けんとするを、我先に戴かんと押合ひ揉み合ふ内に、神職の持てる玉落ちければ各々一時に之を拾はんと競ひける。されど衣服を着たる儘にては進退自由ならざれば、裸体になりて競ひ取合ひしより起りし云云」とあり。また博多記には「正月三日、玉採の神事は神功皇后三韓退治の時、龍神千珠、満珠の玉を献ぜし瑞相をかたどりしものなりと云ふ、雌雄のニ顆あり。相伝ふ、明応三年正月元旦卯刻、博多上州崎町に原田某ありて筥崎宮に詣で、汐井浜に打出で、遥に沖の方を眺めしに、不思議や光明閃々として海上より浮来るものあり、能く之を観れば、一対の珠丸の寄れるものなり、某拾ひ取り其の家に留置せしに、種々奇怪のことあるにぞ、同八年に於て某は其一顆を筥崎宮に納め一顆を櫛田神社へ納むと言ふ」とあり。天明六年八月朔日此の一顆は櫛田神社より筥崎宮に納められたり。
・初卯祭
卯の日卯の年は八幡宮(応神天皇)にゆかり深き故に、春秋ニ季初の卯の日、庭燎の古儀今に存して、厳に仕へ奉る。
・社日祭
社日の潮井汲りとて、深き広き民間信仰に立つ祭也。
・仲秋祭 九月十二日より同十八日迄
世俗に放生会と称す。九月十ニ日より十八日迄一週間の祭典にて、昔は陰暦の八月に行はれたるものなり。大祭の節は社頭の一の鳥居より潮井浜迄約八町の間、大道の両側には大小幾多の露店、見世物、飲食店、遊技場など、夫々区を分ちて連檐櫛比し、白砂の浄域は忽ち華やかなる新市街と化す。
「放生会まいり」といへば、昔より福博の人々にとりては最も大切なる年中行事の一とせられたるものにて、博多の町家は殆ど総て業を休みて参詣し、或は神苑内の松林に幕引廻はして宴席を開き、或は磯辺に船を浮べて一日の清遊を催すものも多し、近郷近在は云ふに及ばず、遠く他地方より来り賽するもの陸続として織るが如し。参詣の多きこと実に九州随一と称せらるる程の賑ひなり。
此の大祭の神幸式は昔時極めて盛大なるものにて、毎年博多の課役として新船三艘を造り、それに神輿を奉じて供奉し、衣冠の装ひを輝かし、音楽の声を響かせて、海上を博多夷町の頓宮即ち今の大浜町の恵比須神社に渡御の儀あり、還幸の際は一旦神輿を浜の浮殿に駐め参らせて後、本社殿に還御あらせらるることとなれり。其の神幸の際に御供を炊ぎたる所即現今の博多御供所にして実に厳かなる神事なりしが、天正戦乱の世頓宮の炎上と共に一時廃絶の止むなきに至り、其の後元禄十四年神職の祈願によりて国主綱政より御幸料の寄進あり、今の神苑内の松林中に頓宮を造営して再興せらる。其れよりは元の如く博多の浜への神幸は止み、松原の頓宮に隔年毎の神幸式を行はるる事となりたり。即ち八月十二日夜の子の刻の三座の神輿出御あり、十三日は頓宮に御駐輿の上、十四日の夜亥の刻の還幸、而して十五日の早天には還幸式を終へて放生供養あり、流鏑馬を執り行ふ。又神幸なき年は流鏑馬に次で猿楽五番、及相撲の奉納等行はれたり。斯くて神幸式は維新の後も其のまま続けられ、現今に於ても隔年にいと厳重に執行せらる。
放生会とは扶桑略記に見ゆる「合戦の間多く殺生す宜しく放生会を修すべし云々」の神託によって始まりたるものと伝へられ、元中六年九州探題今川貞世より筥崎宮大宮司、五智輪院に興へたる文書にも「放生会不可怠」とあり。慶長年中に至りて中絶したりしを、延宝三年正月十五日より座主坊盛範之を再興し、其の後毎月十五日に放生会を行ひしが、明治初年の神仏分離により其の法会は廃絶し今はその名のみを残せり。
・御胞衣祭 十二月三十一日
祭神応神天皇は仲哀天皇の九年十二月十四日後降誕あらせられしが、御胞衣を大晦日の夜を徹して筥崎の地に納められたりといふ由緒によりて、十二月三十一日の晩に行はるる祭典なり。
尚本祭典中箱崎浦漁夫ニ、三十名、神饌所に於て海鼠型の餅を搗き、これを三元祭(一月一日)の神饌に供す。当時箱崎浦の漁夫鏡餅に代へて海鼠を献じたりと云ふ故事に因ると云ふ。
例祭日八月十五日
主なる建造物本殿、幣殿、拝殿、楼門、廻廊、出札所、手水舎、絵馬殿、社務所、神饌所
主なる宝物敵国降伏御宸翰醍醐天皇御宸筆三十七葉、筥崎八幡宮縁起二巻、画入縁起二巻、誉田八幡宮縁起写二巻、筥崎宮神幸図二巻、孝明天皇蠻夷拒絶御祈願綸旨十通、祈願初メ日限書共、古文書及太刀、鎧、扁額、錮印、銅燈籠、唐銅酒瓶等数十点
境内坪数内境内七千六百二十六坪 神苑総坪数約四万坪
氏子区域及戸数箱崎町外市内の一部戸数約一万戸
境内神社・東末社(宇賀御霊神、埴安姫神、住吉三神、諏訪大神、天御中主神、莵道稚郎子命、若八幡、仁徳天皇、宗像三女神、軻遇土命、奥津彦命、奥津姫命)
・西末社(埴安神、保食神、隼男神、武速須佐男神、市杵島姫命、伊弉諾命、伊弉冊命、警固三柱大神、愛宕大神、天野丹生神、仲哀天皇、天照皇大神、志賀三柱大神、天児屋根命、高良玉垂命、仁徳天皇、若姫、宇礼姫、綿津見神)
・末社 玉取神社(事代主命)、宇佐殿(宗像三女神)、相保殿(保食神)、恵比須神社(事代主命)
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