[A00-0004] 太宰府神社(だざいふじんじゃ)
神社誌基本情報
神社誌№ | A00-0004 |
神社名 | 太宰府神社(だざいふじんじゃ) |
社格 | 官幣中社 |
鎮座地区 | 筑紫郡 |
所在地 | 筑紫郡太宰府町 |
メモ |
神社誌明細情報
祭神 | 菅原道真公 |
由緒 | 文教の祖神として古今に渉り世の崇敬最も篤き太宰府神社は、贈太政大臣正一位菅原道真公の神霊永久に鎮り給ふ霊地に奉祀せる神社にして、公が第六十代醍醐天皇の御宇延喜三年(紀元一五六三年)二月二十五日謫居の地榎木寺に薨じ給ふや、御遺骸を安楽寺の境内即ち今の神社の地に葬り奉りて聖廟と称へ、南無天満大自在天神と崇め奉りしが、越えて同五年八月随臣味酒安行始めて神殿を造営し、継いで左大臣藤原仲平勅を奉じ太宰府に下りて奉行し、同十九年に至りて造営の事始めて竣工せり。帝大いに公の誠忠を追懐し給ひて、延長元年(紀元一五八三年)公の本官を復し給ひ、其当時の詔書は之を破棄せられたり。第六十六代一條天皇の御代正暦四年(紀元一六五三年)正一位左大臣とし、更に太政大臣を贈らせらる。それより勅使の下降数度に及び、後二十二社に順ぜられ、朝廷の御崇敬特に篤く、毎年二月二十五日を以て勅祭を行ふを以て例とせられたり。かくて其の後朝野の崇敬彌高まり、明治四年六月国幣小社に列格、同十五年七月七日官幣小社に、又同二十八年一月四日官幣中社に昇格せられたり。 蓋し人臣を主祭神とする神社にして官幣に列せられたるは、当太宰府神社と、同じく菅公を祀れる京都の北野神社との二社のみなり。菅公の遺徳が如何に偉大なるかは之を以て見るも知るべく、歴代皇室の御尊崇如何に篤きかを窺ひ奉らる。最近勅使の御差遣及皇族の親しく御参拝遊ばされし事も極めて数多し。一般崇敬者は全国各地は勿論海外に跨り、飛梅講社に加入せる崇敬者のみにて十万余に達し、一箇年の参拝者は実に二百万を越ゆと云ふ。 更に祭神の御事歴に就き其の一端を追記せんに、菅家は天穂日命より出で、野見宿禰の後裔にて、第四十九代光仁帝の御代天応元年菅原の姓を許さる。道真公は是善公の御子にて御母は大伴氏なり、第五十四代仁明天皇の承和十二年乙丑(紀元一五〇五年)六月二十五日京都の菅原院(現在の烏丸通り下立売南入西側)に誕生せらる。幼を阿呼といひ、吉祥丸と称せしが、後人其の高徳を仰ぎて、菅公といひ、或は菅丞相を称へ、又文教の祖神として朝野の尊崇極めて篤し。 菅公は天資聴明穎悟、幼にして学を好み早く既に経史百家に渉り詩文の才に最も長ぜられたり。嘉祥二年公御年五歳の時、 うつくしや紅の色なる梅の花、あこが顔にもつけたくぞある。 と口ずさみ給ひし事、端なくも時の帝之を聞し召され、参内すべき御内詔下りて龍顔に接し給へり、是れ終始君側に近側に近侍し給ふに至りし始めなり。それより後帝の御覚えめでたく次第に高位高官に上り給ひ、御年五十五の時は正三位右大臣兼右近衛大将に進み、御年五十七延喜元年(昌泰四年、紀元一五六一年)正月七日従二位に昇敍せられ給ひしが、藤原氏の権威旺盛を極めし時にて、同月二十五日突如として太宰権帥に貶黜せられ給ひ、九州に下向せらるる事となれり、実に晴天の霹靂にて人生悲惨事の極みなり。而も誠忠無比の公は黙々として君命を奉じ、其の年の二月京の地を立ち給ふ事となり、其の住馴れ給ひし紅梅殿の庭前の梅を顧みて、 東風吹かは匂ひおこせよ梅の花、あるしなしとて春な忘れそ。 と詠じ給ひしは、現在社殿前の飛梅と共に有名なる事とす。公は其の途次河内国土師の里道明寺に立ち寄り、覚寿尼といふ御伯母君に別を告げ給ひ、二月下旬筑前博多を経て太宰府に着き給ひしも府中には入らず、榎木寺に居を卜して一歩も戸外に出で給はず、獨自ら謹慎の意を表し給へり。衣食の資甚薄く、家は破損して雨水漏れども之を繕はず、炊煙時に断ゆることあるも之を満たさず、時に燈油盡きて明を採る能はざるが如き窮乏の極に達せられたりといふ。上﨟の御身を以て此の悲惨事に直面し給ひながら、一言憤懣の意を漏し給ふことなく居常君恩の篤きを感じ給ひ、天を怨まず、人を尤めず、只管玉体の御安泰を天神地祇懇祷し給ふのみなりき。かくて二年後御年五十九、身体痩衰、脚気と瘡癢とを患ひ延喜三年二月二十五日遂に薨去し給ふ。 |
特殊祭事 | 追儺祭と鷽替、一月七日 追儺祭は伊弉諾尊、豫母津醜女を黄泉比良坂に邀撃し給ひし故事に依るが、是は悪魔を拂ひ幸福を招くの義なり。当神社の此の祭事の濫觴は花山天皇寛和二年(紀元一六四六年)太宰大弐菅原輔正によりて開始せられたる祭事にして、古来災難消除の神事として有名なり。此の式は毎年一月七日境内祓殿に於て古式により例年缺くる事無く執行せられ現在に至る。 古今著聞集に「正月七日の夜先酉時にうそかへと言う事あり。次に法事をなして後追儺を行ふ、是を鬼とりと言ふ、是は貧人をからめて鬼と名づけ、堂の辺を引廻り杖にて打たたき、松の青葉にてふすべて鬼とりたりといふ事今に絶えず、古は観世音寺武蔵寺にも此の事ありしといふ」。 安楽寺草創日記(長野氏云) 薬師堂は俗に鬼ふすべ堂と言ふ、是安楽寺の大講堂なり、薬師佛十二神将を安置す。又正月七日儺鬼をすふ、是は寛和二年都督輔正卿の時に始めらる。 抑追儺祭と鷽替は当社独特の神事にて、追儺祭は「鬼すべ」と云ひ世俗の節分に行はるる「豆撒き」と同じ意味なり。境内の祓殿に神職参入し、氏子の者は鬼方、燻方と別れて神事を奉仕す。殿の背後に積み上げられたる夥しき松葉、藁に点火して之を燻べ、白煙濛々として祓殿を包めば、多くの燻手は各大団扇を以て猛煙を殿内に煽ぎ込む。神職、鬼方は殿内にあって此の猛煙に包まれながら、鬼方は各棍棒を揮って殿の両側背面の板塀を微塵に打破りて鬼を殿内に迎へ入る、此の時燻手は彌烈しく灰儘も残さじと煽ぎ込む処の壮絶なる光景は他に比類なし。夜気迫り来る夜半に至りて行事全く止み、社殿は再び太古の静寂に更け行くなり。又鷽替の神事は鬼すべ神事の前、夜の七時頃より群り来る数千の参拝人が、各自木製の鷽を手にして大集団をなし、「替へませう替へませう」と互に相呼応する聲大楠の梢に谺し、闇中に立ち交りて喧々囂々、神社より出す十二個の金製の鷽を獲んと争ふなり。此の金の鷽に替へ当りたるものは当年の幸運を授かるといひ、九州各県は素より遠隔の地より集り来るもの其の数を知らざる盛況を呈す。 祈祥祭 二月二十四日、二十五日 明治初年全国各地に菅公崇敬者団体散在したりしを逐年呼合し、明治十五年本省の許可ありたるに依り、飛梅講社と名付け一の崇敬者団体を組織し、社員の延命息災、家運隆盛を祈る特別の祭典にて、毎年一月二十四日、二十五日祭事を行ひ、爾来毎年執行せしが、明治四十三年に、太陰暦廃止と共に二月二十四日、二十五日に執行することとなれり。 春祭 三月二十四日、二十五日 御祭神管公、延喜三年二月二十五日謫居の地榎木寺に於て薨去せらる、此の日を永久に記念する為執行せらるる祭事なり。昔時は陰暦二月二十四日、二十五日なりしを、明治中世より太陽暦に改められ三月に執行することとなれり。氏子中よりは其の清明心の表徴として御神楽千燈明を奉納す。 起源不詳なるも、筑前風土記に、「二月二十五日御忌日なれば毎年祭礼あり」。古今著聞集に、「此の春秋二度の大祭今に至りて毎年おこたる事なし、此の秋の祭は匡房卿により始めて行はれし也。且二月二十五日は御忌日なれば此さきより毎年祭礼ありといへども、一年に只一度の御祭はおろそかなるやうに侍れば又秋にもまつり奉るならん」とあり。之に依りて神幸式より以前に春祭は執行されしものと思推せらる。 更衣祭 四月二十日、十一月二十日夜 春秋二季四月、十一月の二十日を以て、羽二重の単衣、綿入の御衣を交互に御取替へ申上ぐる御祭にて、共に夜に入りて最も森厳に、最も荘重に行はるる行事なり。筑前風土記に、幸祭として毎年卯月八日霜月二十日には夜に入りて神前に御食を供へて祭る事侍る、其の夜夏冬の御衣をも新しきを奉りて古きをは玉りぬ、此の祭いつの時よりか有りてん、いざしらず」とあり。其の起源不詳なれども、祭事は現在に至る迄連綿として執行せらる。 夏祭 七月二十四日、二十五日 起源不詳。御祭神管公、仁明天皇承和十二年乙丑年六月二十五日、京都菅原院に御誕生遊ばされしより、此の由縁ある日を永久に記念する祭事なり。毎年缺くる事無く執行せられ現在に至る。祭日期日は明治四十三年、太陽暦に改められたるにより、七月に執行せらるる事となれり。春の祭同様に御神楽千燈明を奉納す。 秋祭神幸式 自九月二十二日至同月二十五日 延喜元年正月二十五日管公太宰権帥に遷させられ、二月下旬榎木寺に到着せられしも府中には入らせられず、自ら謹慎せられ、遂に延喜三年二月二十五日榎木寺に薨じ給ふ。是より先管公御在世中榎木寺に謫居せられし時、同寺の尼僧浄妙尼(浄妙尼といへるは往古此の処を浄妙寺と唱へしにより地名に因りて称へたり)深く御下向を憫み奉り、日夜御傍を去らず懇に奉仕せしが、管公薨去の後浄妙尼も此の地に世を去れり。後第七十三代堀河天皇の康和三年(紀元一七六一年)太宰都督大江匡房に、菅神の御宣託有りしに依り、勅を奉じ年々榎木寺へ神幸式を執り行ふ事を定めらる。此れ神幸式の濫觴にして、該式は榎木寺なる浄妙尼の旧蹟を訪はせ賜ふの意なり。往時は陰暦八月に執行せられしが、明治四十三年、太陰暦廃止により、以後、九月二十二日より同月二十五日迄執行する事となり現在に至る。神幸式の次第は二十二日の深更全部の燈火を消して内陣式行はれ、再び點燈、行列美々しく警蹕の聲厳かに御輿御進発、二十三日の暁方管公謫居の址なる榎木社の行宮所の御着輿、一日を此の地に駐り給ひ、夕暮御発輿、還御の途次境内神池の辺なる浮殿に御着駐輿、翌二十四日夜太古橋を渡御行列厳に本殿に還御、滅燈裡に内陣式行はれて、神霊本座に鎮まり給ひ、翌二十五日大祭奉仕を以て此の神幸式を終る。 年中行事秘抄に、康和二年(付記当社の明細帳並に古今著聞集何れも康和三年となれり)大江匡房八月行幸之神事始為淨妙禅尼献神供依宣命。古今著聞集四巻に、江中納言匡房承徳二年都督に任して下りけるに、同康和三年に都督夢想の事ありて、安楽寺の祭を初て八月二十一日翠花を淨妙寺に廻らす、此寺は天神の御事を留めし地なり、治安都督惟憲卿彼跡を悲みて、一伽藍を其処に修復して法華三昧を修す。同二十三日宰府に還御し僚官社司皆馬に乗りて供奉す、廟院の南に頓宮あり。神輿をそこに休めて神事を其の前に行ふ。翌日宴を張りて夜に入りて才子を引て宴序をのふ。是を祭りの竟宴といふなり。 築陽記十巻に、八月二十三日御幸規式宮司満盛院連日潔斎而二十二日夜半子時入内陣奉守神体此間内外消燈火、奏越天楽奉移神輿云云。伶人奏音楽神人携神器牽神馬僚官社司前後供奉別当社僧或牛車或乗輿而後従云云。宮司先達奉迎神輿於榎木寺二十三日未時奉還幸奉休庿院西浮殿に十四日戌時奉還本社、此時舞楽有簓之舞当地猿楽勉之」。 注連打相撲祭 秋季の大祭として行はるる神幸式の前行事にて、八月三十一日御本社、榎木社行宮其の他御道筋等の注連縄を悉く新調するために、氏子中の若者が社頭に集りて注連縄綯ひを終りて後、互に相撲を取りて打興じたるを其の濫觴とす。今は祭典の余興として筑紫郡中各町村青年団の対抗相撲として最も盛大に行はるる地方有名なる宮相撲まなり。而して神社の優勝旗、陸軍大臣寄贈の優勝旗を始め多くの賞品を出し頗る盛大に行はる。 |
例祭日 | 八月二十五日 |
主なる建造物 | 神殿 延喜五年八月(紀元一五六五年)味酒安行初めて祠を建て、同十九年左大臣藤原仲平勅を奉じて社殿造立。永承五年(紀元一七一〇年)四月回禄、同十一月大江匤房勅を奉じて再建。明応七年(紀元二一五八年)兵燹に罹る。文亀三年(紀元二一六三年)二月大内義興、大友義鑑勅を奉じて造立、天正六年年(紀元二二三八年)兵燹に罹る。同十九年(紀元二二五一年)小早川隆景五箇年の星霜を経て造進す。現在の神殿即ち是なり。明治四十年五月、国宝建造物に指定せられたり。 楼門、廻廊 永観二年(紀元一六四四年)太宰大弐菅原輔正勅を奉じて中門一宇、廻廊四十六間を造営するに至り、社殿の宏荘と相俟って輪奐の美を極め西都の名区となる。爾来数回神殿と共に炎上、最近明治三十七年三月回禄に罹りて其の美観を失ひしが、全国敬神の人士の醵資によりて建立せられたるもの即ち現在の建造物なり。 祓殿 楼門の左側絵馬殿の後にありて、一月七日の「鬼すべ」の神事の行はるる社殿にて、維新当時迄薬師佛を安置したりしため、今猶薬師堂とも称せり。 太鼓橋 教科書の挿絵となれる彼の有名なる太鼓橋は賽者が神境に入る第一歩に於て、其の眼に映ずる美観なり、直橋を中に挿みて前後の二橋が所謂太鼓橋にして神池に其の影の映じたるは風趣は実に当社の一偉観と謂ふべし。 宝物殿 昭和三年の千二十五年祭の記念建物として東神園の入口にあり、菅公の御真筆、御佩刀(毛抜形太刀)など国宝数種を始め、社伝の各種宝物陳列せられ衆庶の拝観に供せり。 徴古館 我が先住民族や古墳時代の遺物を始め、奈良、平安朝時代より明治維新に至る迄諸種の貴重なる史料を陳列す。 文書館 明治三十五年、一千年祭の記念として東神苑の梅林中に建設資たるものなり。皇后陛下及び宮方御参拝の時は御便殿、御休息所に供し奉れり。 |
主なる宝物 | 神号 二幅、共に後陽成天皇宸筆。神号一幅、後土御門天皇宸筆。六歌仙 一幅、照高院外五宮の筆。詩双幅菅公真筆(配所榎木寺に於て揮毫)。菅家系譜 一巻菅公真筆。菅原是善卿御肖像菅公真筆。法華経 八巻菅公真筆。観音経 一巻菅公真筆。古代社頭図 一幅。草創日記 一巻。古文書録書 一枚秀吉。外古文書録書二十三枚並に八冊。古文書 二十枚。絵縁起 十二幅。北野縁起 三巻。同 三巻。連歌 三十状。詩歌和歌 三十葉。御定書 四枚。太刀 一口天国作菅公御佩刀(国宝)。太刀 一口青江俊次作(国宝)。外太刀 九口。蓮華唐草文搏 一個(重要美術品認定)外各種。 |
境内坪数 | 境内坪数 九千二百三十五坪、神苑坪数 三万五千六百二十二坪 |
氏子区域及戸数 | 氏子区域 太宰府町の内大字太宰府、氏子戸数 七百三十九戸 |
境内神社 | 摂社、末社の中、志賀社、天拝山社、榎木社に就て附説す。 志賀社、太鼓橋の辺にあり。長禄二年(紀元二一一八年)の再興にて社殿は規模小さきも結構精巧を極め、明治四十年国宝建造物に指定せられたり。 天拝山社、二日市駅の西方天拝山上に在り、天拝山は菅公と縁故ある伝説の山なり、山頂に巨大なる単幹の老松天を摩して大傘を翳せるが如く聳えたりしが、昭和五年大風の為め幹の中程より摧折して山麓より其の雄姿を見る能はず、今は行人をして転た寂寥を感ぜしむ。秋の神幸式大祭の時、此の嶺上に「迎火」と称へ、忌火を焚きて神輿を迎ふる古例あり。 榎木社、太宰府神社を距る西南約二十町、菅公謫居の址にある社にて、万寿元年の鎮座、浄妙尼霊を祭れり。神幸式の際神輿此処に渡御せらる。 |
境内摂社 | 天穂日命社 祭神 天穂日命、御霊社 祭神 野見宿禰霊 是善卿霊、鶴寿尼社 祭神 菅公伯母鶴寿尼霊、楓社 祭神 菅公北方霊、神子社 祭神 菅公嫡男高視卿霊、神子社 祭神 菅公次男景行霊、神子社 祭神 菅公三男兼茂霊、神子社 祭神 菅公四男淳茂霊、福部社 祭神 田口達音霊、老松社 祭神 島田忠臣霊、宰相社 祭神 菅公四世孫輔正霊、和泉社 祭神 菅公六世孫定義霊、太夫社 祭神 度会春彦太夫霊 |
境外摂社 | 天拝山社 祭神 菅原大神 筑紫郡二日市町字天拝山鎮座 |
境内末社 | 皇太神宮 祭神 天照大神、志賀社 祭神 綿津見三柱神、厳島社 祭神 市杵島姫命、尊意社 祭神 法性房尊意霊、今王社 祭神 未詳 |
境外末社 | 太郎左近社 祭神 未詳 太宰府町字太郎左近鎮座、安行社 祭神 味酒安行霊 太宰府町字三條鎮座、榎木社 祭神 浄妙尼霊 太宰府町字榎木寺鎮座 |
境内神苑 | 当社の境内神苑には、転た懐古の情をそそるもの、又風趣豊かなるもの多し。境内地は約一万坪、東北神苑を合せて約三万五千坪、合計四万五千坪といふ宏大なる地域を占め、老杉巨樟天を摩して聳え、幾千株もの梅樹此の間に點接し、地方稀に見る勝景の霊地なり。特に樟樹の大なるは目通り五十尺を繞り、天然記念物に指定せられたるもの二株あり。 飛梅。きさいの梅。有名なる飛梅は神殿に向って右側にあり、「東風吹かば」の歌と共に余りに知りつくされたる伝説の梅樹なり。年々春をも待たず他の多くの梅に魁けて蕾を破り、馥郁として風に薫り、賽者の袖に香を移して漫ろそのかみを偲ばしむるものなり。 きさいの梅は去る大正十一年三月二十一日、皇后陛下親しく御参拝遊ばされし時に、遥かに葉山の御用邸よりわざわざ持ち越させ給ひて、御寄進遊ばされし由縁深きひと本なり。淡紅の色鮮かに、純白の飛梅と左右相映じて神威のいやちこなるを覚えしむ。 菅公御遺戒の碑。御神殿に向って左側、きさいの梅の傍に在り、古色を帯びたる丈余の石碑にて、文祖菅公の彼の有名なる「和魂漢才」の御遺戒文を刻し、公の御子孫たる前権中納言菅原為定卿安政五年の書になれるものなり。 梅苑。楓山。菅公の最もめで給ひし梅樹は境内は素より東北の両神苑に幾千株といふ数を知らざるまでに枝を交ゆ。開花の期間甚だ永く二三両月に渉りては流石に広き境内も馥郁たる清香と人とを以て埋めらる。 秋は又紅葉満山を彩りて、翠色と相映じ美趣云はん方なく、此の時や復観楓客を以て神域は再び常ならざる賑ひを呈す。 神池。瀧。神池千数百坪、心字の池と云ひ伝へ、有名なる太鼓橋之に架けられて美しく其の影を池水に写せり。数知れざる真鯉、緋鯉所謂魚棲を築きて賽客の投ずる餌を待つ。 白梅の瀧といふは東神苑にある菖蒲池より投下して此の池に注ぐ瀧をいふ。 誠の瀧は神殿の東北隅に鬱蒼として生い茂れる密林の間より数丈の飛瀑厳頭に碎けて青苔の上に迸り、夏時猶涼味津々たるものあり。小松宮彰仁親王の御筆になる「誠瀧」の大字厳頭に高く輝けり。 七卿西竄記念碑。乾坤を転覆する維新の鴻業を達成すべき大志を懐きて京都の妙法院を脱出せし七卿(三條実美、三條西季知、東久世通禧、四條隆謌、錦小路頼徳、壬生基修、澤宜義)は暫し長、防の二国に滞在せしが、此の時澤卿は但馬野に向ひ、錦小路卿は疾みて馬関に仆る。而して前後藩論は変転常なくして勤王の名士各地に殪るる情勢にて五卿は元治二年(慶応元年)二月十三日太宰府に潜行して、今の西高辻男爵家たる延寿王院に身を寄せらる。停ること二年十箇月、大志達成の曙光輝きて復官帰洛の朝命に浴し、慶応三年十二月十九日上洛の喜びを見るに至りし維新史の一頁、実に此の碑となれり。 |