[A00-0011] 鳥飼八幡宮(とりかいはちまんぐう)
神社誌№A00-0011
神社名 鳥飼八幡宮(とりかいはちまんぐう)
社格  県社
鎮座地区福岡市
所在地 福岡市西町
メモ  
祭神応神天皇、神功皇后、玉依姫命
由緒夜に入りて此地即旧鳥飼村平山に至らせ給ふた際、此地に在りし鳥飼氏の人々夕の御饌を奉る。皇后御悦斜ならず、今度の一挙は胎子の為なればとて自ら諸軍卒に盃を賜ひ、大に凱旋を祝し給ふ。夫より年月を経て鳥飼氏の後裔此地に社を建て若八幡宮として斎き奉れり。以来鳥飼氏の子孫数十世に亘りて奉仕せしが、乱世に至り鳥飼氏干戈に暇なかりし為、香椎宮武内氏の家族を招きて社務を司らしむ之を香椎氏と称せしが後此地の名称に従ひ平山と改む、現時の鳥飼八幡宮の神職平山、山内両家は其の裔なりと云ふ。其後黒田長政当国領するに当り、福岡城を築き次で別墅を此地に卜するに及び、慶長十三年(附記神社明細帳には「慶長七年」と記載し、又平山家累世社の沿革を記したる記録の社記に「慶長七年(一説十三年ともあり)」と記す、されど筑前国続風土記、八幡宮本紀(貝原好古編鳥飼若八幡宮御縁起)(洛陽散人吉田靭負敬識)、金子子爵碑文等総て「慶長十三年」と記せり。随つて当社の沿革にも慶長十三年の説を採れり)神殿を現時の西町の地に遷し奉る。是より此附近を茶屋内、又茶屋の山と称す。爾来鳥飼村の住民等毎年旧暦九月十八日大行事小行事と称へ種々古雅なる神饌を供ふ、是皇后凱旋の旧式を存すと云ふ。後古宮附近は士人掘川氏の邸内に入りしも猶小祠を建てて祭り奉りしと云ふ。
而して此の古宮跡の地は明治三十五年福岡県女子師範学校建設さるるに及び、其構内に入れり、現時茅笹雑木等茂れる小高き所に大なる(なのみ)の切株残れり、大正十一年三月有志相謀りて若八幡宮移転跡地に「神功皇后御駐輦之跡」と記せる標木を建つ。大正十一年三月二十二日畏くも皇后陛下同校に行啓あらせられ、親しく玉歩を此所に印させ給ひ、特に此地を撮影して献るべき旨御沙汰あり、乃ち台命を奉じ謹製して奉献す。大正十二年五月鳥飼宮の経費を以て標木を撤し新に石造の記念碑を建て、玉垣を繞らし永久保存の企をなせり。
明治五年十一月三日県社に列せらる。
尚筑前国続風土記に曰く、鳥飼八幡宮感応院西町にあり、其始は鳥飼村松林の中に鎮座し給ふ。(今も其跡に神木の松残れり)長政公入国の後、鳥飼村に別墅をかまへ給ふ。此社其内にありし故に、慶長十三年今の所に移し奉らる。社家の説にいひ伝ふるは神功皇后新羅より帰らせ給ふ時、十二月四日姪浜より上らせたまひ夜に入りて鳥飼村に至り給ふ。御扈に候ひける鳥飼氏の人、夕の膳を奉る。皇后御悦び斜ならず、今度の一挙は胎内にをわす皇子の御ためなればとて、其生さきを御祝をはしまして、近臣等に御手づから御盃を給はりける。後世其地に御廟を建て若八幡と号し奉るとなん御社の中殿には八幡大神を祝ひ、左には宝満大神、右には聖母大神鎮座し給ふ。側に彼鳥飼氏の始祖をも祭り侍るとかや。いにしへは神領多かりしと云伝ふ。今に至りて鳥飼村の田の字に御供田などの名残れり。其後村中より三十六石の神田を寄進し、恒礼の祭礼を勤めける。又其後近代乱世の時、夫さへ無くて、九月十九日形ばかりの祭を執行ひしが、承慶元年御社の側に宮司の坊を建て、鳥飼山感応院鎮護寺と号す、天台宗の僧住す。神領二十石忠之公より寄附し給ふ。九月十九日には流鏑馬あり。
筑前続風土記拾遺に曰く、鳥飼村(別府、大鋸、谷、荒戸、地行、伊崎)日本紀に、垂仁天皇の御世、諸国に鳥飼部を始めて置かれし由見えたり。当村の名も其鳥飼部の住たりし故の遺名なるべし。古来より此村に鳥飼氏の人ありしを、若八幡宮縁起にも見えたり。
若八幡宮宮跡。村の東、士人掘川の宅中に有り。古昔神功皇后三韓より御凱旋の時此地に在し、鳥飼氏の人、御饌を献りしより、後世若八幡宮を勧請せしが、慶長十三年福岡西町に遷し給へるよし本編委しく出たり。(本編に此所に神木の松の木の残れるより見えたれども今は無し雑木の立る小なる森の下に小祠あり。)
八幡宮本紀に曰く、十二月四日、神后勝馬の浜より船に乗らせ給ひ、衵浜(早良郡姪浜にあり今訛りて「あくま浜」と云ふ)につかせ給ふ。此所にて御衣裳の濡たるをほし給ひしにより名けて衵浜と云ふ。此時神后の通らせ給ひし道とて今に海辺に有り、若し過りて其道を隘くすること有れば必ず崇ありとて、村人甚だをそれを為す。御船より揚らせ給ひ、其夜鳥飼村(姪浜より半里東南に在是も早良郡の内なり)まで御座を移さる。時に其村長(鳥飼氏の人なり)夕の御膳を奉る。神后悦ばせ給ひ、御手づから諸臣に御盃を給はり酒をすすめ給ひ終に此所に宿らせ給ふ。後にかの村長なりし人の遠孫其所に御社を建てて神后八幡を祝ひ奉り、社号を若八幡と号す(若の一字社の秘説なり彼の村長なりし人をも後代同殿の傍らに祭り侍る)慶長十三年同村の海浜松林の中に遷座なし奉る。(以上若八幡社説)
鳥飼若八幡宮御縁紀に曰く、上略。抑当社筑前国早良郡鳥飼若八幡宮は蓋当所惣社にして万民安堵の霊檀なり。中略。初皇后凱旋の砌此所よりをりらせ給ふ。時に日暮、夜に入りて夕御膳をたてまつるとなむ。皇后御よろこびのあまりに、恭くも御手づからに板にたたせ給ひて、此度の事はひとへに胎内にをはします若の御ためなればとて、土卒に大御酒を給はりけるこそありがたけれ。則ち其所をいわひ奉りて若八幡と号したてまつりけり。当社は鳥飼村に鎮座有しを慶長十三年の春にいたりて、仮殿遷宮ましまして此の所にうつりをはします事十八年。其後寛永二年の秋鳥飼村の氏子正殿を建立して正遷宮をなし奉る。時に祠官重道拝殿を営むといへり。中略。中は若八幡宮、左は宝満大神、右は聖母大神、今一座相殿に在す、秘伝なるが故にあらはに記しがたし。是を三座四神の大事と云ふて一社の神秘なり。初め鳥飼村に鎮座の時、鳥飼氏の祖たち御供につかへまつり侍りき。其の子孫ありて御神事の時は今につとめて来れりとなむ、殊勝の事なり。下略。
太宰管内志に曰く、早良郡に鳥飼村有て福岡城の西端となれり。され此村に鳥飼八幡の社とてあり。其社家の伝説に神功皇后新羅より帰らせ給ふ時、十二月四日姪の浜より上らせ給ひ、夜に入て鳥飼村に至り、御扈に候ひける鳥飼氏の人、夕の御膳を奉る、皇后御悦斜ならず、此度の一挙は、胎内の皇子の御為なればとて其先生を御祝ましまして、近臣等に御手づから御盃を賜はりける。後世此地に御社を建て若八幡と号し奉ると云ふ。中殿八幡大神、左宝満大神、右聖母大神、又鳥飼氏の始祖を祭る、下略。又当社由緒記の一説に曰く、神功皇后に薦め奉られたる御饌に象りて、毎年十月十八日に鳥飼八幡宮に御供を奉ること今に絶えず。鳥飼氏の末裔と称する家十二軒あり。二軒づつ当番を定めて之を勤む、其の式古例に則り、藁苞に入れ、精進潔斎して供進す。而して其の通路に当れる鳥飼より西町に至る間の道を御供道と称す。当社は福岡城下を分ち警固神社と東西二箇の産土神にして旧藩世産子戸数幾んど三千戸に及べり、されば本社拝社瑞垣楼門神楽殿末社殿に至り壮麗を盡し地方の大社なり、と。
特殊祭事神功皇后御征韓御凱旋あらせられ、十二月御上陸遊ばされて鳥飼里主の邸に入らせ給ひ、凱旋を祝し給ふ、其の後鳥飼氏の後裔御駐輦の跡に御廟を建立して若八幡宮を斎き奉祀す。
夫よりして御供苞を神饌(往古軍粮)として鳥飼氏の末裔と武内氏の末裔とが宮座として(一子相伝)連綿今に亘る。此藁苞神饌は大行事小行事にて勤め、其数二十八本を鳥飼八幡宮秋季大祭に奉饌す。神饌固めは歴代同宮司平山家山内家の両家を以て之を行ふ。両家は武内宿禰の末裔なり。
[神饌] 神饌の種類
一、ハラカ供 藁苞の中にオコワ(糯米を蒸したるもの)、四升盛四本。右ハカラ供は神功皇后及武内宿禰に奉るものと云ひ伝ふ。
二、御供苞 藁苞中にオコワ、二升盛 二十二本。右征韓将軍二十二将に奉饌するものと云ふ。
三、シシの供 (士士の供ならん)藁苞中オコワ、右征韓将卒に饗せし数幾千なるを不知、依て大行事小行事より一本づつを奉饌すと云ひ伝ふ。
其他変りたる神饌数多あれども、神祭に適合の分を用ひしなるべし。
鏡餅は神代餅搗の古式に據る。
畏れ多くも、大正十一年三月二十二日皇后陛下女子師範学校行啓の御時、神功皇后御駐輦跡にて献上申上ぐ。大正十二年五月十四日同遺跡にて久邇宮殿下御台臨の時献上申上ぐ。
例祭日十月十九日
神饌幣帛料供進指定大正六年十月一日
主なる建造物本殿、幣殿、拝殿、總門、社務所、絵馬殿、神楽殿、集会所、籠殿
主なる宝物剣一、刀五、槍一、鎧二
境内坪数二千四百四坪九合
氏子区域及戸数旧鳥飼一円、大工町一部以西今川橋以東(主なる町名、唐人町、地行東西町、荒戸町、西北湊町、東南湊町、簀子町)戸数四千二百戸
境内神社塩竃神社(武甕槌神、塩土翁神、経津主神)、天満宮(菅原道真公)、恵比須神社(八重事代主神、狭依姫神)、黒殿神社(武内大臣、鳥飼氏始祖)、稲荷神社二社(倉稲魂命)
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