[A00-0015] 菊池神社(きくちじんじゃ)
神社誌№A00-0015
神社名 菊池神社(きくちじんじゃ)
社格  県社
鎮座地区福岡市
所在地 福岡市大字七隈字椎木
メモ  
祭神菊池武時、埴安命、大鷦鷯命
由緒祭神肥後守菊池次郎武時公は元弘三年三月十三日筑前国博多にて北條英時と戦闘の際、少貳、大友の反覆に依て敗軍遂に戦死せられたり。当社は其の墳墓と云ひ伝ふる地に奉祀せるものなり。大正十一年三月十六日許可を得て同大字字天神前に奉祀ありし十六天神を本社に合祀す。
大正十一年三月十六日村社に列せらる。昭和八年四月四日県社に昇格。
尚社説に曰く、当社は南朝の大忠臣菊池武時公の墳墓の地にして、公は元弘三年癸酉、後醍醐天皇の綸旨を奉じ九州探題北條英時を討たんと欲し、一族郎黨百数十騎を率いて錦旗を春風に翻へし肥後国菊池の居城を進発勇しく征途に上り、三月十三日未明博多の探題館を攻撃せり。
是より先共に綸旨を戴き協力作戦を盟約せる大友貞宗少貳貞経は俄に変心し、武時の使者を討ちて其の首を英時の舘に送りたり、武時之を聞き「日本一の不当者を頼みたるは我が落度なりしなり、彼等が興せざる共戦の出来ざる事あるべきぞ」と大いに奮戦して英時の軍を散々に打破り、英時も最早是迄なりと覚悟し將に自刀せんとす、此の時少貳大友は数千騎を以て英時の軍を援け菊池軍を挟撃せり、武時公天を仰ぎて長嘆し「萬事休矣」と叫び嫡子武重を招きて言へらく「汝は肥後の菊池に帰り城を堅くして再び義兵を挙げよ尚之を持ち帰れ」とて
故郷に今宵かぎりの命とも 知らでや人の我を待つらん
と云ふ一首の和歌を衣の袖に記して興へたり、武重は「一処にこそ死なん」と再三申せしも武時公は「汝を天下の為に留むるぞ」と強ひて之を還へし、自身は潔く戦死せられたり。時に年四十ニ歳なり。大日本史菊池武時列伝に曰く、帝の京都に帰りて諸臣の功を録し給ふや新田、名和、楠等皆其席に陪せり。楠正成進み奏して曰く「元弘の勲功実に優劣を辨じ難し、然れ共臣等が如きも僥倖にして恩を受けたり武時が勅に応じ命を致せるが如きは宜敷功臣第一と為すべし」と帝之を歎頷き給ふ。
即ち菊池公親子博多の袂別並に戦死は是より三年後の楠公父子桜井驛の袂別及湊川の殉節と並び称せらる。宜なる哉畏くも明治天皇は明治十六年八月武時公を従三位に敍せられ、更に明治三十五年十一月従一位に追陞あらせ給ひ、肥後国隈府の菊池の旧居城にある菊池神社は明治十一年別格官幣社に列せられたり。
公の遺骸を葬る本墳墓は久しく荊棘の中に埋居しが文政十年、黒田家臣川相近は遠く吉野山の桜を携へ来りて其の側に栽へ英霊を慰めたり。
又菊池氏の支裔城武貞の主唱により藩主の允許を受け勤王の志士と相謀り草莾を拓き土地を均し高四尺幅二尺の墓碑を建つ。
菊池寂阿公之墓 天保二年辛卯二月建立
とあり碑文は藩内文武の巨擘吉留渉(杏村と号又は源巨川と号す)の筆に成れり。次いで天保三年三月十三日公の戦歿後五百年に当れるを以て城武貞祭主となり五百年祭を挙行するや藩主黒田斎清之を賛して金帛を賜ひ家老職以下の藩士及藩学の教授竹田梧亭老儒月形鷦窩、亀井昭陽、井土周盤、青柳種信、阿部蘭畝等祭粢を贈り或は詩歌文章を奉納し忠君の熱誠を偲び愛国の至情を発揮せり其の数三巻二冊に及ぶ。又勤王の志士平野次郎国臣の如き深く公の遺跡を探り、特に安政五年本墓畔に和魂漢才の碑を建つるの意を以て京師に出で縉紳家に嘱して撰文を得んと尽力せしも国事多端の折柄遂に成就する事能はざりき。
明治二年二月藩主黒田長知公は奉行桑野浄風、中上重遠、久芳信順三氏に命じ、神殿拝殿を建立し墓域に石垣並に石玉垣を築造し鳥居を奉献菊池霊社と号し、藩主親ら重臣を率いて参拝し、又衆庶をも多数参拝せしめたり。是実に本社の正式創立にして肥後隈府菊池神社の鎮座に先づること約半歳なり。
明治十五年寂阿の遠孫菊池武夫城武滉等五百五十年祭を執行し参事院議官福羽美静を始め、旧福岡藩士亀井玄谷其他宿儒名家等参集し詩歌文章を奉納せり。
殊に明治十七年十一月畏くも小松宮彰仁親王殿下は社頭に掲げる神号額 菊池霊社 の四字を御染筆の上之を下賜せられ公の忠霊を嘉せられたり。爾来七隈里民により年々三月十三日に祭典は挙行せられしが春風秋雨と共に玉垣は倒れ鳥居は朽ちて全く荒廃に委せしかば明治二十五年十二月早良郡小学校教員協議を遂げ各自年々寄附金を醵出し又児童よりは賽銭を集め其の資を以て玉垣鳥居を復旧し山林を買収して境内を拡張し志士顕彰の実を挙げたり。
明治三十五年十一月明治天皇熊本行幸の砌畏くも武時公の忠烈を偲ばせ給ひ特に従一位を追贈し給ふや早良全郡官民挙つて本社に奉告祭を厳修せり。
大正八年早良郡史談会の主唱に基き七隈氏神埴安神社を移転本社に合祀し村社菊池神社となり埴安命大鷦鷯命二柱を配祀するに至れり、然して挙郡一致の醵金と篤志者の浄財及び全郡青年、処女、郷軍会員の労力奉仕に依り境内の拡張社殿の改新築を了へたり。
殊に昭和八年四月十三日武時公六百年祭に当りては御昇格奉賛会協力の許に同年四月四日付県社に御昇格せられ、極めて盛大なる大祭を執行したり。
例祭日四月十三日
神饌幣帛料供進指定昭和八年四月七日
主なる建造物神殿、渡殿、拝殿、神饌所、神庫、社務所、手水舎
主なる宝物菊池千本槍二條、旧記三巻、軸物一巻
境内坪数一千百六十三坪
氏子区域及戸数大字七隈 百二十五戸
境内神社五穀神社(天照皇大神、埴安神、倉稲魂命、少名彦命、大己貴命)
▲TOP