[A00-0020] 小烏神社(こがらすじんじゃ)
神社誌№A00-0020
神社名 小烏神社(こがらすじんじゃ)
社格  村社
鎮座地区福岡市
所在地 福岡市大字薬院字浦
メモ  
祭神八十枉津日神、大直日神、神直日神
由緒不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。
当社祭神に就て(祭神考証)、当社の祭神を警固神社の祭神と同神の如く登録せられたるものあり、されど当社の祭神は全く別神にして建角身神なり。而して斯かる誤記を来たせし所以のものは、恐らくは慶長六年以後一時警固、小烏両神社を警固の山上に祭祀せられしを、同十三年両社分祀の際祭神の泥清を生じたるか、若くは明治初年神社明細帳提出当時の誤謬に基くものと推断せられ、極めて重大なる錯誤として洵に恐懼すべき所なり。
今先覚の所説を左に抄録して立証とすべし。
一、筑前国続風土記巻之三、貝原益軒編述
小烏神社は古へより此処に鎮座し給ふ、城州下加茂の小烏の社と同神にて建角身命なり云々。
一、筑前国続風土記付録、鷹取周成加藤一純編述
小烏神社古より此地に鎮座の神にて、地主の神なればとて、警固神遷宮の時同殿に祭られし也。俗に此の社を小烏社と称するは地主の神にまします故なり云々。註(附記 本文中「此地」とあるは現在の福岡市小烏馬場を指し、「此の社」とあるは警固神社を指示せるものなり。)
一、筑前神名帳
警固神社は今の本丸におはしませり、慶長六年福岡城を築き給はんとて、暫く下警固の山上に遷し給ふ。其後慶長十三年今の所に小烏の社と相殿に祭り給ふ(中略)又小烏神は建角身命にして城州加茂社と同神也云々。
一、筑前八幡宮本記 貝原好古編述
古伝記に曰く(中略)其軍衆を警固し給ふにより神号を警固明神と仰ぎ、其社地を警古村と云ふ、今は那珂郡薬院に小烏神社建角身之命と相殿にましまし神后、八幡も同殿にいはひまつる云々。
一、筑前早鑑 末永虚舟編述
警固大明神(中略)慶長十三年薬院町の東方小島の社のある所にうつし同社に崇め給へり、(中略)小烏神社は城州下加茂の神社と同神なり是建角身命也云々。
一、筑前名所図絵巻之一 奥村玉蘭編述
警固大明神(中略)神直日、大直日、八十枉津日の三神は軍衆を警固して勝利を得べき事を守らせ給ふ、是当社の三神なり。此故に三神を後世に警固大明神と崇め奉る也。
又小烏の社は警固大明神を此所に移してより以来は同社に祭り侍る、今此所に祭る所は三座にして七神なり、中座には警固三神おはします、左には小烏大明神、白山権現を祭る、右方は神功皇后八幡大神を崇奉留云々。
一、福岡県地理全誌 臼井匡胤編述
村社警固神社(中略)社伝に上古は那珂郡岩戸郷に鎮座あり、仲哀天皇九年庚辰警固村福崎筑紫石の辺に影現ありければ、神功皇后即其山上に祭り給ふ。今の福岡城中本丸の地なり。慶長六年辛丑黒田長政福岡城を築かれし時、暫く下警固村の山上に移され、同十三年戌申今の地に新に神祠を建立せらる、七月七日下警固村より遷宮の式あり。
此地(現在の福岡市小烏馬場)は昔より小烏明神座して(即建角身命にて山城加茂小烏社と同神なり)地主神なれば同殿に祭らる、此社を小烏社と称するは此故なり云々。又警固神社仮殿址の條に曰く、薬院村の南警固山にあり、警固神社はもと福崎山にあり、黒田長政城を築かれし時暫く此所に遷し、薬院村に改立らるるに及び、小烏神社の神体をも相殿に置かる、其後警固神社は今の薬院町に遷し、小烏神社は今の薬院村に遷されしと云ふ云々。
一、筑前旧志略 末永茂世編述
警固神社附小烏神社、薬院町にあり、所祭神直日神八十枉津日神なり。此社始は福崎の山上福岡城の内に上代より鎮座なりとぞ、慶長年間築城の時、此所に移されたり。小烏神社は所際建角身命にして従前此所に在し社なりしを此の時より相殿に祭られたり。
一、筑前那珂郡薬院村小烏神社縁起
那珂郡薬院村小烏の御祠は、始め福岡の南元の薬院村の中にありけるを、慶長の頃警固村の山上に移し、警固大明神と暫く相殿に祭れり。其の後其の所に御祠を造営し移し奉りぬ。元の薬院邸は慶長六年長政公福岡の城を築き給ひし時、諸士の宅地と為し給ひ、邑村をば皆移して警固村の南に居らしめ、其の所を薬院村と為せり、即ち今の薬院村なり。是に依りて元の薬院村は皆士人の宅に成れり。然れども今に此所をも猶薬院と称す。其南に細き流れあり、其の川の「カラト」あるあたり、古へ御祠のありたる所なりと云ひ伝ふ、「カラト」の西の方に神前の御池の跡なりとて今も埋み残して田の中に形ばかりの池あり、又其のあたりの田を泉水田と云ふ、是古へは広き池なりしを田と為しける故名付侍るならん。其の中頃警固村の上に移し奉りしは、是より前長政公城を築かせ給はんとて、経営し給ひし時、警固大明神の御祠本丸の地にありしを下警固村の山上に移し給へり。其の御祠に、小烏の御神体をも移し奉りて相殿に祭れり。俗説に此御神は警固大明神の御母にておはします由云ひ伝へ侍るに依りて、斯く同社に移し奉りしとかや。是薬院村を移されし時の事なるべし。其後忠之公、城の本丸にて誕生し給ひしかば、警固大明神は産神なるを以て殊に厚く尊敬し給ひき。慶長十三年、御祠を薬院の東に移していとうるはしく造営し給ふ、此の時小烏の御神は猶警固山の祠にて祭りけるを、薬院村の居民相議して我村の産神を他にをき奉るべきにあらずと思ひ、人々力をあはせて小祠を建立し今の処に移し奉りぬ。然るに近世誤りて此御祠を古宮と称し侍る、是は中頃警固山の上の御祠ありける事を知らずして、初め警固大明神を本丸の地より此祠に移し奉り、後に又薬院の東に遷宮有しも此御神よりのことにてありけると思ひ、其の跡に残れる御祠なればとて古宮と称し侍るなるべし、是大なる誤なり。此の御祠は本邑の民、後に建立せし処なれば、もとより古宮にはあらず、又今の警固宮にも、此御神を勧請しける故、警固宮は忠之公の産神なるを以て造立し給へる御宮ばれば、小烏の本社にはあらざるべし、鳥居の額にも警固大明神とあるを以て知るべし、小烏大明神は古へより本邑の産神にて、御祠も邑中にあれば此祠を本社とすべし。されど誌し置ける文書もなし、又年久しく成行くまま古老の残れるもなくなりて其説たしかならず、あやまりを伝へて今に至りぬ、邑中のもの心あるは常に是を憂へ思ひけるが、近き頃そのあやまりを正し置かん事を欲し、許斐氏郷によりて予が筆記を求む、氏郷もまたしばしばその求めに応ぜんことを進めらる、定澄本州の続風土記に、此祠の事を誌せるを見侍るに其の説前に云ふ処の如し、益軒先生風土記を撰み給ひし時迄は、古老の存しけるも猶多くして、其の時の人にも問て是を聞、又博覧を極めし人なれば、古記を見給へるもあるべし、誠に徴とするに足れりと云ふべし、定澄もとより固陋にして聞少く広く勘へ詳にわきもう事能はずと雖も里民の厚き志も黙しがたく、依て風土記の説にしたがひ誌し侍る事しかり。一説に今の警固宮は元此所に小烏の小祠ありける故、造営ありて警固大明神を移し奉り給ふと云ふ、然れども今の警固宮のある処は昔の小烏の御宮の跡とは遥かに隔りたれば此説も信じ難し、御宮地の跡たしかなるより処にて、此御祠のありける所は薬院の南の川のあたりなりし事疑ふべからず。
抑此御神は城州下賀茂の小烏の御祠と同じ御神にて、建角身命を祭り奉る。古へより此国薬院村に鎮座しまして、本邑の産神と崇め奉れり。薬院村は其のかみ博多の津に唐船来りし時、薬種を多く持渡りけるを此処に植させ給ひける故、邑の名とせし由言ひ伝へ侍る。其頃は村中の人民も多く侍りて御祠もさこそうるはしく、御祭の儀式なども厳重に執行侍りつらめど、今は絶て伝はらざれば、記に及ばず、ただただ神明は時にしたがひて盛衰有べき事ならねば、其の御祠古への盛んなりし時にしかずと云ふとも、益々敬ひて仰ぎ尊むべし。
宝暦八年春三月 竹田定澄
抑々祭神建角身命は神産霊神の御孫と有之、神徳赫々国土開拓のため「産霊」の威徳を布かせ給ひ、神武天皇御東征の御砌、或は皇軍を向導せられ、或は賊軍の説得に努めさせられ、神祖の御刱業に至大の御功績を樹て給ひし事は国史及旧記の詳記する所なり。
当社は上古より今の福岡城址、即ち古への警固所の東方、昔の薬園(後の那珂郡薬院)の地に鎮座ましまし、地方の古社、産土の霊神として尊崇せられ給ひ、永く邑民の信仰を集めさせられ、附近の地名其他にも特に御神縁の浅からざるもの多し、藩祖長政公福岡城を築かるるや其地(赤坂山福崎)に座せし「警固神社」を移され、之を警固の山上(古賀山)に遷御せられたる砌、暫く其の相殿に祭祀せらるるに至りしが、後警固神社を今の小烏馬場に遷座せらるるに及び、当社は独り該山上に留まらせられ、其処に新社殿を建立し、爾来藩主黒田家の崇敬厚く、神秀新に照り栄へ給ひ、建国創業の功神として、又地方開拓の産霊祖神として神徳彌栄に、神祐彌増に、古社の尊厳一入高く上下の信仰日に月に篤きを加ふ、現に警固神社の門前を「小烏馬場」と称するは、当社の偉大なる尊崇信仰を象り顧みて御因縁の浅からざるを想ふと共に、この縁りの錯誤に起因して、小烏明神を警固明神の御母と謂ひ、俗間異説を生みて御記録を誤り、其の移御合祭の経緯を究めず、錯覚祭神を異にしたるは、真に恐懼措く能はざるもの多し、茲に事の顛末を略記して敢て「祭神考証」の末尾に附す。
例祭日十月十七日
神饌幣帛料供進指定大正十一年十一月二十七日
主なる建造物神殿、渡殿、拝殿、神饌所、社務所、神楽殿
主なる宝物神鏡一面
境内坪数七百三十四坪
氏子区域及戸数南薬院、汐入町、原の町、上出口町、中出口町、岩戸町、中庄町、小森町、町数十一箇町、戸数約一千三百戸
境内神社稲荷神社(倉稲魂神)
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