[A00-0063] 天照皇大神宮(てんしょうこうだいじんぐう)
神社誌№A00-0063
神社名 天照皇大神宮(てんしょうこうだいじんぐう)
社格  県社
鎮座地区糟屋郡
所在地 糟屋郡山田村大字猪野字別所
メモ  
祭神志賀三神、罔象女神、住吉三神、天照皇大神、天手力雄神、萬幡千々姫神
由緒祭神志賀三神、罔象女神、住吉三神は字権現に村社水取神社として祭祀ありしを、明治四十三年八月二十五日許可を得天照皇大神宮に合祀す。由緒不詳、明治九年三月再興、此社者神功皇后異国退治之時祈願之社と古老云伝ふ、住吉は供日田と云ふ地にあり洪水の患有るを以て宮苑と云地に移転す、其後元和三巳年二月本社地に移す。明治十五年三月四日村社に被定。天照皇大神、天手力雄神、萬幡千々姫神は社号を天照皇大神宮と称し、元来当神社の祭神なりしも明治四十三年八月二十五日許可を得水取神社を移して同殿とし同時に村社天照皇大神宮と公称す。
由緒不詳往古豊丹生氏の人都に居住す。世々大神の祭を司れり、足利将軍の末代に当りて豊丹生佐渡守有り。罪有て豊前国彦山の麓に流されけり、時に大神佐渡守に告て曰く汝我をたづさへて配所にをもむくべしと、依て密に神体を捧奉り彦山の麓に居住す。其千兵庫太夫に大神告て、「汝我をつれて筑前国粕屋郡猪野と云所に移るべし」と宣ふ、兵庫太夫教の如く猪野村に行き宮を建て仕へ奉る。其後天和三年(延宝誤)黒田権少将継高今の社地に社殿を築き遷す、以後旧藩にてニ十一年目毎に社殿造替を奉仕す。
同大字字南に無格社古宮大神宮として祭祀ありしを明治四十五年三月十四日合併許可、祭神同一に付合併と共に合霊せり。由緒此所は豊丹生兵庫太夫豊前国より来りて大神宮を斎祭りし地なり、天和三年旧藩主黒田継高別所之地に大神宮遷移以後二十一年目神社造替の節此地は旅所なり。大正十二年五月四日県社に昇格。又社説に曰く、当社の創立は果して何時の頃なりしか杳として今知るに由なきも、往昔大神宮鎮座(三代実録天慶元年授筑前国正六位上天照神従五位下)の宮所に足利の末世豊丹生佐渡守が神託を奉じて都より斎き祀れる事実は疑ふの余地なし。
藩主黒田光之公神主豊丹生信重をして工匠都料工藤太夫清重を率ひ伊勢神宮に遣はされ神宮格式に依る造営の奥秘を習得せしめ、本殿を始め瑞垣玉串門鳥居に至るまで、造営調度等悉く伊勢神宮に模へ築造せらる、爾来寛文元年に至る迄、二十五年毎に更営せらるる例なりしを、延宝五年より二十年制に改められ現在に及べり、神域は古来神路山と称し、社前の清流は五十鈴川と唱へ前橋、五十鈴橋架設され、境内には老松老檜鬱蒼として繁茂し幽邃森厳神威の光被する所蓋し尋常ならず、神路山の山頂には、国見ヶ嶽の霊峰あり神功皇后三韓征伐の際、上山田斎宮より大神宮に武運長久の祈願せられ、国見ヶ嶽に登山し給ひ、航路を定め給ひし所なりとの伝説あり。
例祭日四月二十一日
神饌幣帛料供進指定大正十二年五月二十四日
主なる建造物神殿、幣殿、拝殿、渡殿、神饌所、宝蔵庫、社務所
主なる宝物神鏡、古鏡、鉾一対、薩摩箱一個、絵馬、白鶏置物、祓具面説一巻、太刀、神像其他
境内坪数一万八百三坪
氏子区域及戸数百三十ニ戸
境内神社住吉神社、七所神社、恵比須神社、貴船神社、祇園社(何れも末社)
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