[A00-0126] 八所神社(はっしょじんじゃ)
神社誌№A00-0126
神社名 八所神社(はっしょじんじゃ)
社格  県社
鎮座地区宗像郡
所在地 宗像郡吉武村大字吉留字宮尾
メモ  
祭神泥土煮尊、沙土煮尊、大戸道尊、大戸辺尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊
由緒神武天皇天業を恢弘せんと日向の国より舟師を帥いて東征し給ふ時、遠賀の郡岡の湊に暫く蹕を駐め当郡蔦岳に到給ふに当社の神赤馬に乗り形を顕して人民を指揮し皇軍に従はしめ永く当地の守護神たるべしと誓ひ給ふ。即ち其所を名付て赤馬の庄と云ふ又清浄なる地に鎮り座んとて吉き所に留り給ふ故に吉留と云へり、旧と社殿造立の時は是より西北なる鶄鴒山の麓に鎮座有けるを天武天皇白鳳二年信託に由りて今の地に遷すと云へり。人皇二十代安康天皇の朝当社の神霊験を顕はし給ふこと著明なる故天皇勅使中臣朝臣利盛を下し当宮を祭り給ひ幣使に松を栽て標とし給ふ枝葉繁茂今に至て其松存す時人号して安康の松と称す人皇五十代桓武天皇の時橘逸勢遣唐使に属し当国に下り午の日航海の安全を祈りし故午の日祭始ると云ふ、されば古へは大社にして神領も多く社職二十一人なりしこと古記に見へたり、目下存保する所の額は小野道風八所宮三字を書したるは天暦年間也とあり然るに世の乱離を歴て漸く衰敗せしも猶天文の棟札二社人五家八乙女等の姓名を記し且つ敷地十一箇村の村名を記せり、又宗像大宮司分限帳の田地二町三反赤間庄八所宮社領と見ゆ該神田は天正十五年豊臣秀吉筑前下向の際没収す、然るに当社昔時武将の信仰頗る厚かりしが故に小早川隆景筑前国主となりし際親しく来詣ありて太刀一振、幕一聯、御饌田二反五畝歩奉納ありしことは正しく古文書の存する所なり、且旧筑前藩主黒田家に於ても代々尊信自身参拝ありしこと数次なり、然して阿計郷十一箇村総鎮守氏神たりし故維新の今日に達し旧敷地各村に於て猶俵米を献納し又は例祭神幸に供奉するあり明治五年十一月三日村社に定めらる。
明治四十二年三月六日郷社に昇格
昭和九年九月二十二日県社加列
尚社説に曰く、現今鶄鴒山全山境内にして一万六千坪に及び昔ながらの老樹鬱蒼、古幹参差、神秘幽邃たる有様如何にも古社たるかを偲ばしむ。
毎年秋季大祭十月十八日午後十一時より御神幸祭を執行し御神輿三体の前驅供奉をなす大名行列は、御鷹持御手振鉄砲御弓大筒薙刀御羽熊短鎗御鳥毛長槍挾箱草履取と凡そ百余名行列の長さ二丁余に及び、同じ衣装に草鞋を履き一定の間隔を置き慎重なる歩速一絲乱れず、エーイ、エーイと肺腑より出づる掛聲は、神さびたる御神幸の楽の音に和し、静寂なる深夜、星空に澄み亘り、小笠原流の型を踏みて徐ろに進行する様実に名状すべくもあらず。供奉する氏子には旧十一箇村の氏子及び崇敬者も加はり、本宮より頓宮に至る十五六丁の間路傍立錐の余地無く、其の神々しさ云はん方なし。
例祭日十一月十日
神饌幣帛料供進指定昭和九年十月九日
主なる建造物本殿、渡殿、神饌所、神輿庫、社務所、宝蔵庫、廻廊、参籠殿、行列道具飾庫、井戸家、手水舎、鳥居、注連掛石
主なる宝物神額、絵馬、太刀、観音像
境内坪数凡一万八千坪
氏子区域及戸数吉武村一円、三百戸
境内神社八幡神社(応神天皇)、稲荷神社(蒼魂神)、大歳神社(大歳神)、菅原神社(菅公)、貴船神社(闇龗神)、須賀神社(素盞嗚命)
摂社無格社現人神社(神直日神、大直日神)、無格社菅原神社以下十七社
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