[A00-0578] 六所神社(ろくしょじんじゃ)
神社誌№A00-0578
神社名 六所神社(ろくしょじんじゃ)
社格  県社
鎮座地区糸島郡
所在地 糸島郡可也村大字馬場字長谷
メモ  
祭神伊弉冊尊、速玉男命、事解男命、中筒男命、表筒男命、底筒男命
由緒古老の口碑には神功皇后異国退治帰朝の船当郡小金丸村右の浜と云ふ所に着其時鎮座すと云伝ふ、皇后鎧の草摺石となりしとて右の浜に鎧石有り毎年九月二十七日右の浜に仮宮を立て神輿を奉休、然して馬場本宮に着給ふ尊神西境の鎮守なる故に世々此国郡を領する国主領主社領を寄附し殿社を経営す、往古は大社にして神田当郡於波多江村五十町寄附中世屢々兵乱に祭田不貢宮頽壌す、寛永辛未年国主黒田忠之再建筑前早鑑神社記筑前神社由来記等にも見ゆ、明治五年十一月三日郷社に定められ、昭和八年三月十日県社に列せらる。
尚社説に述ぶる所次の如し。当社は熊野三神住吉三神を祭り、御鎮座の年代は古くして文書に徴すべきもの無けれども、中世の文書伝説等に依れば神功皇后異国退治の時、尊神御船を守護し給ひ刄に衂らずして異賊降参す。皇后御帰朝の時御船を当村小金丸右の浜(幣の浜)に着御御上陸、本神を御祭祀の上国の守護神として奉鎮座と云ひ伝ふ。皇后の御鎧の草摺石となりしと云ふ、摺石右の浜にあり昔は毎年九月二十七日右の浜に仮宮を建て御神幸をなし奉り、御還御の際小金丸に熊野権現異国より渡り給ふ時御腰を掛け休み給ひたると言ひ伝ふる横三尺縦四尺位ありて底深く地中に入りたると云ふ、此の石に御神輿を奉休し御神意を慰め奉りしと云ふ、其の石を輿掛石と云ふ。其の附近に桟敷と云ふ地名も残れリ、然して後ち馬場本宮に着せ給ひて、祭儀殷盛を極めたりと云ふ。
尊神西境の鎮守なる故に世々此の国郡を領する国主領主社領を寄附し社殿を経営す。往古は大社にして本社殿は享禄四年十二月十一日豊後国大友修理大夫源朝臣義鑑公改築し、廃したる神幸を再興し祭典等も厳重に行はれ、大宮司官巫女等多数ありて殷盛を極めたりしに天正の頃屢々兵乱に遭遇し、当郡波多江村に五十町粕屋郡仲原村の内七町歩、当郡小富士村辺田に一町五反歩の社領を有せしも悉く没収せられ、遂に祭田不貢社殿頽壌せしを、寛永八辛未年国主黒田忠之再興社殿を改築し三十六歌仙簾銘刀等を寄進し、爾来代々国主より修繕せられ、箱崎宮を一の宮とし本宮を筑前二の宮として郡奉行大庄屋等に令して社殿相継ぎて修理を加へられ、中古志摩郡の総社と崇め祭典厳重に奉仕せらる。殊に雨を乞ひ霽れを祈られるる時は、必ず家臣を代参せしむるを常とし、元岡村大庄屋は觸下二十ヶ村御庄村大庄屋は觸下に十八ヶ村に令して参列せしむるを常とし来れり。明治五年十一月三日郷社に列格し昭和三年九月三日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、昭和八年三月十日県社に昇格せり。享禄四年以後の六所神社棟札左の如し、
享禄四辛卯歳十二月十一日
奉造立馬場六社大明神御本社大一宇大檀那豊後国大友修理太夫源朝臣義鑑公御武運長久延命息災所
寛永八年辛未十二月十三日
欽奉造改馬場六所大明神御宝殿同拝殿二宇国主右衛門佐侍従源朝臣忠之公命工御当作也御武運長久御子孫繁栄攸。
慶安三庚寅歳三月十三日。元禄十六癸未歳十二月十九日。享保二丁酉歳八月十六日。元文元丙辰年九月二十六日。延享五戊辰年六月五日。宝暦七丁丑五月吉日。寛政十三辛酉年二月等、外に四枚の棟札を有す。
例祭日九月二十八日
神饌幣帛料供進指定昭和三年九月三日
主なる建造物本殿、幣殿、拝殿、神饌所、社務所、手水舎
主なる宝物御神鏡、莱桐御紋章入水引幕、縁記一巻、棟札十五枚、三十六歌仙絵馬、翁面一対、大刀三口、絵馬五枚
境内坪数一千九百九十七坪
氏子区域及戸数大字馬場区 戸数三十九戸
境内神社現人神社、蒼稲倉魂大神(保食神)
末社厳島神社(市杵島姫命)
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