[A00-0583] 浮嶽神社(うきだけじんじゃ)
神社誌№A00-0583
神社名 浮嶽神社(うきだけじんじゃ)
社格  郷社
鎮座地区糸島郡
所在地 糸島郡福吉村大字吉井字浮嶽字渡瀬
メモ  
祭神伊邪那岐尊、伊邪那美尊、菊理姫尊
由緒浮嶽の一山巍然として群山を抜き、肥前の国境に聳ゆ、殊に唐津湾に臨み海門を鎮護するものの如し一度仰ぎて之を望めば神霊その嶺にいますが如き感あり、神山の称偶然に非ず。
創立紀年不詳、古老の伝説に昔神功皇后御征韓の時浮嶽山上に於て戦勝の御祈願あり三韓へ御渡航の所三韓輙く降伏し無事御凱旋ありたるを以て戦勝報賽の為め祭場に神社創立ありし所なり、依て古来浮嶽を神山と云と謂ふ後ち聖武天皇の御世天平年間僧清賀勅を奉して久安寺を建立し奉仕することとなれり是怡土郡七大寺の一にして勅願寺なりと言ふ、又当社祭式天文二十年までは奉仕の僧院を久安寺と称し属寺十坊(院主坊、清永坊、浄至坊、奥の坊、正桂坊、大門坊、寺司坊、杖立坊、正覚坊、道実坊)ありて浮嶽白山抄理大権現と称し本地は彌陀釈迦、観音と唱へ社頭繁栄祭典も厳重に執行し社領等も数多有之しか天平年中豊太閤征西の節僧院は兵燹に罹りて燼滅し社領等悉く没収せられ清永坊を除くの外悉く滅亡し現今田畑の字に其古跡を存するのみとなれり、然るに文禄四年唐津の城主寺澤志摩守の領地として山林百数十町寄附あり後土井大炊頭の領となり又幕府の直轄と変し明治維新の頃は宗対馬守の領地となり居れり如斯領主の更迭あるも寄附の山林は二百七十余年間更に異状なく清永坊に於て之を保護し祭祀を司れり、而て神社は常に領主の祈願所とせられ崇敬特に深くして明治維新に至れり維新後該山林は上地となれり。
社宇二あり、一は浮嶽の山嶺にありて上宮と称す、次は其の山腹にありて中宮と呼べり。而して之を総して浮嶽白山大権現と号し来れり。
上宮中宮従前併て一社なりしを明治十二年の達示に依り書上の時誤て別社の如く為し居りしを以て一社に訂正出願之所明治三十五年四月八日訂正許可、明治四十四年六月二十九日村社に加列許可せらる大正十五年一月十八日郷社に列せらる。十月十九日の大祭は行列前後に整へ、吉井浜へ御幸の式あり。
例祭日九月十九日、十一月二十三日
神饌幣帛料供進指定大正十五年二月十五日
主なる建造物上宮 神殿、参籠所
中宮 神殿、渡殿、祈念殿、拝殿、社務所、参籠所
主なる宝物仏像(国玉)、刀二口
境内坪数千三百十九坪
氏子区域及戸数八十戸
境内神社牛神社
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