[A00-1368] 二宮神社(にのみやじんじゃ)
神社誌№A00-1368
神社名 二宮神社(にのみやじんじゃ)
社格  村社
鎮座地区山門郡
所在地 山門郡沖端村大字稲荷町字北町
メモ  
祭神蒲池鎮漣霊神
由緒不詳、明治六年三月十四日村社に定めらる。
社説に述ぶる所次の如し、創建年代堤氏(淡路氏)覚書に天正九年龍造寺蒲池鎮漣の霊を祭るとあり。古賀某氏蔵覚書によるに、二宮神社天正九年創立、其砌は肥前の国龍蔵司公より御供米五十俵御寄附に相成居候得共慶長三年戌三年に、右御供米に御引換社地二反二畝三歩残しに而唯今御供米凡十俵斗り毎年私平元に拝受仕候事とあり。南筑明覧にに曰く、天正年間蒲池鎮漣嫡子宗虎丸の二霊を祭ると、命酒見村攝取院座主自龍造寺氏祭之云、祭日十一月二日とあり。
宮永村山田仙二氏の筆記に依るに、沖端二宮神社と申し奉るは蒲池氏民部少輔鎮漣公舎弟駿河守統安また、公の嫡子宗虎丸二公の霊を祭とや。抑蒲池氏と申は承久の此より世々蒲池の城主にして後裔蒲池近江守鑑盛居城の狭隘を以て本城を柳河に築き、旧城を以て保障とす。後薙髪して宗電と称し探題大友に随ひ筑後二十余人の簱頭たり、天正六年日州耳川に戦死し英名を天下後世に伝て、嫡子鎮漣また武威近国に振ひ玉ふ。爰に西肥龍蔵寺隆信筑後を併呑するの意あり、鎮漣を佐賀へ迎へ兵を四方に伏せ与賀明神の馬場に於て盛筵を開き散楽を催して四面鯨波を発し甲兵来り迫る是や覧震羽衣の中に豈図や漁陽聲鼓の聲動地来らんとすと、鎮漣大に怒り叔父左馬大輔鎮久と共に多少の敵を討ち終に自殺し玉ふ。郎徒は大勢に割て入り縦横に忿撃すれど寡は衆に敵しがたく不残戦死を遂たりける。肥兵は時を移さす柳河に寄来る、城中には蒲池駿河守統安、一族には池末宗可、家宰には富安成清等大に防き戦へとも不意を討れ各戦死し城陥るとかや。其後統安宗虎丸の霊魂崇りなぜば龍造寺氏二公の霊を祭り二宮神社と称しける。此れより此地の産神と崇め祭り、今に至り諸人の尊敬他に異にして霊験また新なり。鑑盛公天正の戦死より今茲明治十丑年に至て巳に三百年の星霜を経たり、衆人追遠の情を起し奥に五月祭典を行ふ事十九日より二十一日に至る、祭祀の肅邕人々神の徳を乗るの誠意を尽し、旧臣の後裔を迎へ神殿に於て置酒高会し往事を追想して誰か感慨の情なからんや、賽人は蟻集して衆屐群屐の雷を起し繡帯銀衿の林をなす、社祠の境内に劇場を開き鼓聲は海門の波に響き絃歌は堤松の風に和す、爰に二十日の夜神火ありて社林を出て飛て街上を廻り古賀某の屋上に留る、観者これを奇とし之を怪とす、彼の古賀氏たるや古へ豪商を以て鎮漣公へ事へ屢軍資を助け深く忠節を尽せり、此の子孫神明を尊崇し今度三百年忌の盛典も衆と共に誠心尽力の功あるを神も感応ましまししや、霊火の顕はれしは所謂至誠感神の顕ならん歟云々とあり。
例祭日陰暦四月二十二日、十一月二日
主なる建造物神殿、拝殿
境内坪数百二十八坪 官有地第三種
氏子区域及戸数百三十戸
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