[A00-1759] 諏訪神社(すわじんじゃ)
神社誌№A00-1759
神社名 諏訪神社(すわじんじゃ)
社格  無格社
鎮座地区久留米市
所在地 久留米市本町三丁目
メモ  
祭神健御名方神
由緒久留米市本町三丁目に鎮座まします諏訪神社は今を距ること四百三十九年の昔即ち明応七午年八月後士御門天皇の御代平井雅楽なる者御綸旨を拝戴し当地に於て鋳冶の業に従事し常に火工を業とするを以て諏訪明神を崇敬し遂に我が居所の庭中に祠を立てて之を奉祀し火難を禳はんことを祈れり、降つて天正、文禄元和の間毛利秀包、田中吉政、有馬豊氏、相次で領主となり居を洗切より当三丁目に移すと共に祠を奉して来り世々祭祀を奉仕し敢て怠ることなかりき、雅楽四代の孫新右衛門の妹聟養子岩橋惣三郎なる者御綸旨相続き鋳物師司の跡を継承したりしが惣三郎五代の孫惣左衛門の代に至りては家運傾き愈々困窮に陥りたれば裏地子へ往古より勧請奉祀せる諏訪大明神を町屋敷分に御遷座の儀、時の藩主有馬數種公へ願出たる処安永四未年十月願定聞居かせられたるを以て安永八巳亥年六月垂井、山本、石橋、松本、永松、富安の諸氏商議を遂げ本町住居の人と力を戳せて社殿を再建し夫れより七年の後即ち天明六巳年九月垂井平秩、山本周平、石橋規彭、松本清門、吉田直重尚ほ修造を加へ街中の諸子弟は石の鳥居を奉献して神域を荘厳ならしむ。之れより領主を始め士民の崇敬一層深きを加ふ、惣左衛門の子求馬なる者天明八未年大宮司支配下にありて社守となり岩橋伊豫と称せしが天保七申年九月十九日近火の為当社社殿類焼に罹りたれば遅滞なく仮殿を造りて御神体を一時此に奉安し同九戊年より再び造営を計画し同時に官に対しては社地狭隘なるを以て増地を願ひ天保十一子年社地増約六十坪余を拝領して神域を拡め同十三年に至り漸く竣工を告げ茲に始めて厳粛なる御遷宮の儀式を挙ぐることを得たり、伊豫の子信濃土佐に去りし後は奉仕者なき故白山町郷社白角折神社社司鳥飼守雄及其子眞清の兼掌する所となれり。
明治維新即ち明治四年八月藩主有馬公の居城たりし篠山城直下柳原に久しく勧請奉祀しありし諏訪神社を当社に合祀せらるるに当り高良山にありし大献公廟前に有馬公奉納の石燈籠四基及柳原社内の洗水盤、石造井戸側祭器等総て当社へ御寄進運搬せしめられたり、抑も当社は火除の神或は病患除の神或は武人の神として古来より世人の崇敬篤く封建時代に在ては藩主有馬公代々特に信仰あらせられ当社へは必らず月並の代参御差遺あるのみならず三潴郡大川町字酒見鎮座県社風浪神社に参詣の際は先づ自ら本社に御参拝あり御鷹狩の時も必ず御参拝あり、又彼の三潴郡大善寺村県社玉垂神社の年中行事の大祭典たる陰暦正月七日の追儺際に当り社寺奉行をして先つ本社に参詣せしめらるるを慣例とされ、玉垂神社当番組は当日早暁祈願の為め本社へ参詣すること古来よりの行事として今日に及べり、畢竟当夜は長さ七八間に余る大炬火六丁點火祈願神事執行せらるるに依り神明の御守護を得て其の火難を免れんが為め祈願なりと云ふ、尚ほ筑後の国大部分に亘り古より今に火除御札配付を受けつつあるは其の霊験渇仰に由ることと信せらる。
主なる建造物本殿、幣殿、手水舎、社務所、鳥居
境内坪数三百坪五合五勺
氏子区域及戸数久留米市本町二五五戸
境内神社末社 恵比須宮、末社 白角折神社
▲TOP