[A00-1764] 重栄神社(しげよしじんじゃ)
神社誌№A00-1764
神社名 重栄神社(しげよしじんじゃ)
社格  無格社
鎮座地区浮羽郡
所在地 浮羽郡山春村大字三春字西小谷
メモ  
祭神贈正五位田代彌三左衛門
由緒祭神の父を田代重信(周防国大内氏の族人也)と云ひ大庄屋職たり、重信老て其の職を退くや重栄其の職を継ぐ人と為り利用厚生の志篤く常に支配村民の困弊せるものあるを憂ひ之を救はんと欲するも良法を得ず、然るに支配村の内なる大石、原口両村の畑地と原野とを開墾し水田となし、水を灌ぐを得ば部民の幸福を得ると共に国産を増加すること亦大なりとし、地理を相するに水路に恰当の地は半里に渉る岩山にして之を貫通するは到底人の力の能くする所に非ずとし一旦之を断念し、寛文八年家督を長子重仍に譲りて退隠せり(退隠後剃髪して了清居子と云ふ)然れども水路開通のことは一日も忘るる能はず、日夜考究の後自ら掘鑿の方法と工程とを案出し、重仍と協議し連署して起工の許可を久留米藩府に請ふ、府官実地を検し、其の計画の大膽に驚けるも其の設計方法は悉く理に叶へるを以て遂に起工を許可せらる。茲に於て直に金山抗夫を傭役し、九ヶ月を経て之を貫通するを得たり、其の延長実に千百十間に及べり、即水門を開き水を通さんとするに高低の度合はず為に用水通ぜざれば、更に千歳川を横断する大石の堰を築造せんとせしも、此の地の水勢恰も瀑布の如く巨石大石を投すれば、投ずるに随て流失し、殆んど施すべき術なし、依りて井幹を製作して之を水底に沈置せんとし己れ既に六十歳の老体なるに拘はらず死を決し率先水底に入りて衆を励ます、衆大に激励せられ、奮ひて水底に入り辛うじて井幹を据付け得たるを以て直に巨岩六石を投ずるに皆其の位置に着き、漸くにして長さ六十四間幅五十九間に渉る大石堰を築造するを得、茲に於て奔流水門に入り一千余間の切貫溝中に伏流す、此の時衆人歓呼の声は山谷に轟けり、是より各方面に水路を開かんとするに方り、偶々凶歳に遭ひ水路の全部を完成するを得す一時工事を中止するの已むなきに至れり、斯る絶大の難工事を遂行せしため家産の大部を失ひたるも部民の困弊を救ふの一端を拓けりとし大に喜色を顕せりと、而して重栄は貞享四年三月十四日終に病に没す、享年七十二歳なり。是より後延宝七年に至り、重仍は亡父の志を継ぎ私財を投じて亡父が予定せる各方面に渉る水路を開鑿して事業を完成し茲に七十七町歩余の水田を得たり、爾来其の余水に依り年々水田を増加し大正の大御代に至りては灌漑反別実に百七十余町歩に及べり斯く独力を以て百代救民の基礎を定めたる者其の此蓋し稀なるべし。
岩山開鑿に傭役せられたる抗夫等工事を終へ各其の郷に帰るに方り、重栄が家産を賭し死を決して不屈不撓以て絶大の難工事を完成したる精神に感激し暗溝上の岩壁を穿ち重栄の像を彫刻して記念と為せり、其より年を経て重栄の没するや水路関係の人民は其の恩恵を追想し其の像を神と崇め重栄様と唱へ毎年三月を以て祭典を執行せしが水田の増加に伴ひ祭典費を負担せんと申出づるもの亦増加し現在五百二十戸の多きに及べり、重栄没して今や二百五十三年(昭和十五年迄)而して祭典は年を追ひて盛大となれり、之れ報本反始の礼を行ふ所以なり。明治四十一年十一月明治天皇福岡県に御臨幸、久留米市に御駐輦中其の功績辱くも叡聞に達し、特旨を以て正五位を贈らせ給ふ。大正五年四月十二日許可を得て社殿を建築す。
例祭日四月十四日
主なる建造物神殿、拝殿、社務所
境内坪数三百坪
氏子区域及戸数崇敬者五百二十戸
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