[0104] 菊池神社(きくちじんじゃ)
神社№  0104
神社名  菊池神社(きくちじんじゃ)
神社別名  
参拝日  2011/12/04
再訪日  2013/07/09
社格   県社
その他社格 
ご祭神  菊池武時、埴安神、仁徳天皇
由緒等  
菊池神社

肥後(現在の熊本県)の武将菊池武時を祭る神社で、社伝によれば、武時公の墳墓の地(胴塚)とされています。武時は、元弘3年(1333年)後醍醐天皇に味方し、博多の鎮西探題北条英時を攻めましたが、味方の少貳・大友の離反により壮絶な死を遂げました。天保2年(1831年)、菊池氏の子孫で福岡藩士城武貞が墓碑を建立、翌年に没後500年祭を挙行しました。明治2年(1869年)、最後の福岡藩主黒田長知が、その忠勤をたたえこの地に社殿を建立しました。

福岡市

菊池神社由緒

当社は菊池武時公(墳墓)を奉祀
武時公は元弘三年(皇紀一九九一年)至誠愛国の精神を後世に伝え、博多の地に討ち死にされた武将である
相殿に仁徳天皇、埴安大神を奉祀、御神徳は厄祓、招福開運、家内安全、商売繁昌
天保三年福岡藩士城武貞公、武時公の五百年祭挙行、旧社殿は明治二年黒田藩主黒田長知公が建立(写真有)大正十一年七隈天神前に鎮座されていた村社十六天神社(若宮池の近く奉祭の若宮を合祀)を当社に合祀す
遺跡-鳥居の石額、旧社殿社紋入り瓦、しめ掛石、燈籠、手洗石等ある
現在の社殿は、大正十五年起工、旧早良郡中の学校を中心に有志の奉仕により昭和二年竣工
昭和八年県社昇格、同年四月十三日六百年祭以来十年毎に御遷宮
昭和五十二年十一月一日~十日菊池神社の菊を戴き第一回菊花大祭執行、同五十八年武時公の六五〇年式年御遷宮

菊池神社由来書

鎮座地 福岡県福岡市城南区七隈七丁目十番一号
主祭神 菊池武時(埴安神 仁徳天皇 後に合祀)
建立 明治二年四月

建立経緯及び由緒
福岡藩主黒田長知公が、奉行桑野浄風・中上重遠・久芳信順三氏に命じ菊池神社の神殿・拝殿を建立し墓域に石垣並びに石玉垣を築造し、鳥居を『奉献菊池霊社』と号して藩主自ら重臣を率いて参拝され又多数の参拝者と共に盛大にお祭を行い建立を祝ったと言われております。
これが本社の正式創立とされ、肥後隈府菊地神社のご鎮座より約半年早い建立となりました。
また本社は、後醍醐天皇の命を受け元弘三年(一三三三年)三月十三日、筑前国博多にあった九州探題の北条英時を討つため一族を率いて博多へ登り、非業の死を遂げられました『菊池武時公』(寂阿公)を主祭神としておまつりしている神社です。
また本社はそもそも、武時公の墳墓の地(胴塚)と言い伝えられている神社でもあります。
後の大正十一年三月に村民の希望により十六天神社を合祀し現在の御三神をご祭神といたしております。

文政十年、黒田家家臣二川相近が遠く吉野山の桜を抱えて来て本墳墓の傍らに植え公の御霊を慰められました。
天保二年、菊池氏の末裔である城武貞氏が中心となって黒田藩主の協力を得て志しの同じもの達と共に荒れ果てている墳墓の地を整えて高さ四尺幅二尺の墓碑(『菊池寂阿公の墓・天保二年辛卯二月建立』とある碑文は当時福岡藩内で文武に秀でていた吉留渉(杏村又は源巨川と号す)の書である)を建てられました。
天保三年三月十三日、武時公が亡くなられて丁度五百年にあたるため、黒田藩士で菊地氏末裔の城武貞氏が祭主となって公没後五百年祭が挙行されました。この五百年祭には藩主黒田斉清公より金帛を賜り、黒田藩の家老職の藩士及び藩学の教授竹田梧亭、老儒月形鶴、亀井昭陽、井土周盤、青柳種信、阿部蘭敏等は詩歌文章を寄せ祭典を賛助し、藩庁はむろんのこと一般市民にも武時公の墓所として知られる事となりました。
明治二年、福岡藩主の命により、奉行桑野浄風、中上重遠、久芳信順の三氏が玉垣を建設・手洗い鉢を献納されました。
明治四十一年、当時の早良郡教育会により玉垣が修築され、毎年四月十三日には当時の郡内小学校生徒職員が参拝しておりました。この頃郡内有志者や学校生徒は運動競技を行っておりました。
大正九年十一月、神社境内を拡張し社殿建設を計画し当時の早良郡史談会が寄付金を募り大正十三年四月十三日に基礎工事に着工し早良郡内の青年会及び処女会と在郷軍人会が労力を奉仕して同年七月、神社境内拡張工事が竣工しました。その後も社殿建設に伴う寄附は行われ、黒田侯爵家・菊地男爵・西川中将・武谷軍医官ら諸名士や旧早良郡の土斐崎三右衛門氏の壱千円や鍋山幾次郎氏の五百円を頭として官民有志の寄附により、大正十五年八月に社殿が竣工しました。
昭和八年四月四日、県社に昇格しました。
以後、ほぼ十年毎に遷宮祭やそれに伴う記念事業を行い、昭和五十八年に神殿・幣殿を建て替え、平成七年に社務所を新築して境内の整備をおえ、また崇敬者の方々のご寄附により立派な鳥居が奉納され現在のような神社境内地となりました。

菊地武時公について
元弘三年、後醍醐天皇の命をもって九州博多の地にあった九州探題北条英時を討つため、一族百数十騎を率いて錦の旗を春風に翻し肥後の国菊池を出発し、三月十三日未明より筑前博多の在所々を攻め始めるが、同盟を交わした大友貞宗・少貳貞経は武時公が知らない内に北条方にねがえっていたため全く動く気配がありませんでした。
それを知った武時公は「日本一の不義者に頼った事が自分の落ち度であった」と大友・少貳の加勢がなくとも北条軍を討つことを決意し、大いに奮戦の後北条軍を散々苦しめ、北条英時ももうこれまでと覚悟してまさに自刀しようとしていたその時、大友・少貳の軍勢千騎あまりが菊地の軍の背後より攻めこんできました。それを聞いた武時公は『万事休す』と天を仰ぎ、嫡子の武重を側に呼び、「お前は菊池に戻り城の守りを固くし、再び兵を挙げる時を待て」また「これを持ちかえれ」といって『故郷に今宵ばかりの命とも 知らでや人の我を待つらん』という一首の和歌を衣の袖にしたためて武重に渡し菊池に帰しました。また郷里でこの和歌を受け取られた奥方は『故郷に今宵ばかりの命とぞ 知りてや君の我を待つらん』との和歌を残して武時公の後を追われ自刀されました。

平成十六年一月吉日 福岡菊池神社社務所
ご朱印  
鎮座地区 福岡市城南区
郵便番号 814-0133
所在地  福岡市城南区七隈7丁目10-1
地図座標 33.551258,130.360846
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 菊池神社 [A00-0015]
【所在地】 福岡市大字七隈字椎木
【祭神】 菊池武時、埴安命、大鷦鷯命
【由緒】 祭神肥後守菊池次郎武時公は元弘三年三月十三日筑前国博多にて北條英時と戦闘の際、少貳、大友の反覆に依て敗軍遂に戦死せられたり。当社は其の墳墓と云ひ伝ふる地に奉祀せるものなり。大正十一年三月十六日許可を得て同大字字天神前に奉祀ありし十六天神を本社に合祀す。
大正十一年三月十六日村社に列せらる。昭和八年四月四日県社に昇格。
尚社説に曰く、当社は南朝の大忠臣菊池武時公の墳墓の地にして、公は元弘三年癸酉、後醍醐天皇の綸旨を奉じ九州探題北條英時を討たんと欲し、一族郎黨百数十騎を率いて錦旗を春風に翻へし肥後国菊池の居城を進発勇しく征途に上り、三月十三日未明博多の探題館を攻撃せり。
是より先共に綸旨を戴き協力作戦を盟約せる大友貞宗少貳貞経は俄に変心し、武時の使者を討ちて其の首を英時の舘に送りたり、武時之を聞き「日本一の不当者を頼みたるは我が落度なりしなり、彼等が興せざる共戦の出来ざる事あるべきぞ」と大いに奮戦して英時の軍を散々に打破り、英時も最早是迄なりと覚悟し將に自刀せんとす、此の時少貳大友は数千騎を以て英時の軍を援け菊池軍を挟撃せり、武時公天を仰ぎて長嘆し「萬事休矣」と叫び嫡子武重を招きて言へらく「汝は肥後の菊池に帰り城を堅くして再び義兵を挙げよ尚之を持ち帰れ」とて
故郷に今宵かぎりの命とも 知らでや人の我を待つらん
と云ふ一首の和歌を衣の袖に記して興へたり、武重は「一処にこそ死なん」と再三申せしも武時公は「汝を天下の為に留むるぞ」と強ひて之を還へし、自身は潔く戦死せられたり。時に年四十ニ歳なり。大日本史菊池武時列伝に曰く、帝の京都に帰りて諸臣の功を録し給ふや新田、名和、楠等皆其席に陪せり。楠正成進み奏して曰く「元弘の勲功実に優劣を辨じ難し、然れ共臣等が如きも僥倖にして恩を受けたり武時が勅に応じ命を致せるが如きは宜敷功臣第一と為すべし」と帝之を歎頷き給ふ。
即ち菊池公親子博多の袂別並に戦死は是より三年後の楠公父子桜井驛の袂別及湊川の殉節と並び称せらる。宜なる哉畏くも明治天皇は明治十六年八月武時公を従三位に敍せられ、更に明治三十五年十一月従一位に追陞あらせ給ひ、肥後国隈府の菊池の旧居城にある菊池神社は明治十一年別格官幣社に列せられたり。
公の遺骸を葬る本墳墓は久しく荊棘の中に埋居しが文政十年、黒田家臣川相近は遠く吉野山の桜を携へ来りて其の側に栽へ英霊を慰めたり。
又菊池氏の支裔城武貞の主唱により藩主の允許を受け勤王の志士と相謀り草莾を拓き土地を均し高四尺幅二尺の墓碑を建つ。
菊池寂阿公之墓 天保二年辛卯二月建立
とあり碑文は藩内文武の巨擘吉留渉(杏村と号又は源巨川と号す)の筆に成れり。次いで天保三年三月十三日公の戦歿後五百年に当れるを以て城武貞祭主となり五百年祭を挙行するや藩主黒田斎清之を賛して金帛を賜ひ家老職以下の藩士及藩学の教授竹田梧亭老儒月形鷦窩、亀井昭陽、井土周盤、青柳種信、阿部蘭畝等祭粢を贈り或は詩歌文章を奉納し忠君の熱誠を偲び愛国の至情を発揮せり其の数三巻二冊に及ぶ。又勤王の志士平野次郎国臣の如き深く公の遺跡を探り、特に安政五年本墓畔に和魂漢才の碑を建つるの意を以て京師に出で縉紳家に嘱して撰文を得んと尽力せしも国事多端の折柄遂に成就する事能はざりき。
明治二年二月藩主黒田長知公は奉行桑野浄風、中上重遠、久芳信順三氏に命じ、神殿拝殿を建立し墓域に石垣並に石玉垣を築造し鳥居を奉献菊池霊社と号し、藩主親ら重臣を率いて参拝し、又衆庶をも多数参拝せしめたり。是実に本社の正式創立にして肥後隈府菊池神社の鎮座に先づること約半歳なり。
明治十五年寂阿の遠孫菊池武夫城武滉等五百五十年祭を執行し参事院議官福羽美静を始め、旧福岡藩士亀井玄谷其他宿儒名家等参集し詩歌文章を奉納せり。
殊に明治十七年十一月畏くも小松宮彰仁親王殿下は社頭に掲げる神号額 菊池霊社 の四字を御染筆の上之を下賜せられ公の忠霊を嘉せられたり。爾来七隈里民により年々三月十三日に祭典は挙行せられしが春風秋雨と共に玉垣は倒れ鳥居は朽ちて全く荒廃に委せしかば明治二十五年十二月早良郡小学校教員協議を遂げ各自年々寄附金を醵出し又児童よりは賽銭を集め其の資を以て玉垣鳥居を復旧し山林を買収して境内を拡張し志士顕彰の実を挙げたり。
明治三十五年十一月明治天皇熊本行幸の砌畏くも武時公の忠烈を偲ばせ給ひ特に従一位を追贈し給ふや早良全郡官民挙つて本社に奉告祭を厳修せり。
大正八年早良郡史談会の主唱に基き七隈氏神埴安神社を移転本社に合祀し村社菊池神社となり埴安命大鷦鷯命二柱を配祀するに至れり、然して挙郡一致の醵金と篤志者の浄財及び全郡青年、処女、郷軍会員の労力奉仕に依り境内の拡張社殿の改新築を了へたり。
殊に昭和八年四月十三日武時公六百年祭に当りては御昇格奉賛会協力の許に同年四月四日付県社に御昇格せられ、極めて盛大なる大祭を執行したり。
【例祭日】 四月十三日
【神饌幣帛料供進指定】 昭和八年四月七日
【主なる建造物】 神殿、渡殿、拝殿、神饌所、神庫、社務所、手水舎
【主なる宝物】 菊池千本槍二條、旧記三巻、軸物一巻
【境内坪数】 一千百六十三坪
【氏子区域及戸数】 大字七隈 百二十五戸
【境内神社】 五穀神社(天照皇大神、埴安神、倉稲魂命、少名彦命、大己貴命)
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公開日  2013/07/14
更新日  2013/07/14
神社全景
神社入口風景
社号標
神社案内板
一の鳥居
一の鳥居扁額
参道階段
二の鳥居
二の鳥居扁額
手水舎
境内風景
社殿正面
由緒書き
由緒書き
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
社務所
社殿全景
社殿全景
社殿全景
本殿
社殿背景
   
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