[0144] 名島弁財天社(なじまべんざいてんしゃ)
神社№  0144
神社名  名島弁財天社(なじまべんざいてんしゃ)
神社別名  
参拝日  2012/03/10
再訪日  2012/08/01
社格   不詳
その他社格 
ご祭神  不詳
由緒等  
名島弁財天社

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は、九州出兵の際に当社を詣で、この地に九州の守護とする名島城を築くよう小早川隆景に命じました。その際、隆景は堂を修復して城の鎮守とし、その後、歴代の福岡藩主から崇め敬われました。江戸時代には名島弁財天社と称しましたが、明治維新の神仏分離により名島神社と改称され、弁財天は宗栄寺に祭られるようになりました。現在は蓄財の神として広く信仰されています。

弁才天(弁財天)

当寺の弁才天は平安時代の天台僧慈覚大師円仁が、唐より帰国に際して弁才天に祈願して、無事帰国できたことを感謝して勧請したものともいわれる。現在の名島神社の所に名島弁才天として祀られていたが、明治維新の神仏分離令により宗栄寺に祀られるようになった。
弁才天は弁財天・美音天・妙音天等ともいわれる。
歌詠・音楽のことを掌る女神で無礙の弁才を有し、佛法を流布し、寿命増益・怨敵退散・財宝満足の利益を施すといわれる。もとはサラスバティーといい、意味は(水に富む者)で印度の大河の女神である。山々より海へと流れ広大なる富を与え、その清流の水音より音楽の神、弁舌の神、芸術の守護神とされ、また河水が肥沃な土地を作ることより財宝を与える神として弁財天とも書くようにもなった。
像は弁才天の経である金光明最勝王経弁才天品では八臂とあり、それぞれ弓・箭・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持つ姿である。これ等は武器であり諸悪に打ち勝つことを表している。経にも戦いで常に勝とある。一般には二臂像で琵琶を弾ずる姿が知られている。後世では頭上の宝冠に華表があり白蛇を頂いているのもある。
七福神のなかの只一人の女神で弁才・財宝・福徳・権威名声・長寿・技芸・行法を授ける神として信仰されている。
弁才天の眷属は宇賀神将と十五童子及び八万四千といわれ宇賀神とは白蛇の姿といわれる。
神仏混合時代では宗像三神(多紀理毘命・市杵島比売命・多岐都比売命)と習合しており、現在でも三神を祀っているところの近くには弁才天を祀っていることが多い。
弁才天真言 おんそらそばていえいそわか。

宗栄寺

天台宗 総本山は比叡山延暦寺
本尊 薬師瑠璃光如来
別本尊 弁才天(弁財天)

徳川三代将軍の治世、肥前島原で天草一揆が起こり、幕府はこれを制圧するため九州の諸大名に攻めさせた。黒田藩黒田忠之も出陣し攻めるも屈せず、寛永十五年二月に十一日夜、一揆の兵が黒田、鍋島等の陣を攻撃した。この時黒田の将として一万石を領していた岡田半左衛門利良とその子左右衛門も出陣していたが、この時の戦いに於いて父子ともに敵の銃丸により戦死した。利良の妻は二人の菩薩を弔うため尼となり、藩主に乞い博多妙楽寺を再興して父子を埋葬するとともに、父子の遺品を名島の古塁の麓に納めて精舎を建て、利良の家士手島半兵衛の次男で比叡山で修行していた心性坊俊道を招き開基とした。これが宗栄寺である。亦同じ名島にあった弁才天宮の別当寺神宮寺の末寺であったが、神宮寺は明治初年の神仏分離令により廃寺となり、弁才天社は名島神社となり、弁才天尊は没収され博多・芦屋等転々としたが名島地区民の強い要請と運動により明治七年一月名島へ還御、宗栄寺が別当寺なり今に到っている。
ご朱印   
鎮座地区 福岡市東区
郵便番号 813-0043
所在地  福岡市東区名島1丁目25付近
地図座標 33.644675,130.422674
公式HP   
福岡県神社誌未掲載
コメント  
公開日  2012/09/09
更新日  2012/09/09
一の鳥居
一の鳥居扁額
参詣道階段
参詣道(弁財天通り)
名島弁財天社案内
白蛇様?
参道
神社入口
入口前庭園
二の鳥居
境内風景
手水舎
弁才天説明板
宗栄寺説明板
社殿正面
拝殿内
社殿背景
社殿全景
辨才天御真言碑
地蔵堂?
地蔵尊
三日恵比須神社
不詳
 
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