[0295] 香椎宮(かしいぐう)
神社№  0295
神社名  香椎宮(かしいぐう)
神社別名  
参拝日  2012/04/28
再訪日  2014/09/27
社格   官幣大社
その他社格勅祭社、別表神社
ご祭神  仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神
由緒等  
香椎宮

祭神は、仲哀天皇、神功皇后 配祀 応神天皇、住吉大神。3世紀ごろ、仲哀天皇は国の内外を平定されるため、神功皇后とともにこの地に橿日宮を営まれました。当宮は、この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祭られたのが起源とされており、古くは「香椎廟」と称され、朝廷や人々の崇敬を受けてきました。また、享和元年(1802年)に再建された本殿は「香椎造」と呼ばれ、その優れた建築様式は国の重要文化財に指定されています。

福岡市

香椎宮御由緒畧記

御祭神 主神 仲哀天皇 神功皇后 配神 応神天皇 住吉大神
御由緒 香椎宮は西紀ニ〇〇年神功皇后躬て仲哀天皇の御神霊を祀り給う他のが起源です。
次いで神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(七ニ三)に皇后の御神託により朝廷が九州に詔して社殿の運営を始め聖武天皇の神亀元年(七ニ四)に竣工したものでこの両宮を併せて香椎廟と称した。
明治以後官幣大社香椎宮戦後は香椎宮と称している。
香椎宮は伊勢大廟(伊勢神宮)と共に廟号を以て他の神社と異なる特別な御崇敬を捧げられ、国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ国家の安泰を祈願された。現在十年毎に勅使の参向があり、全国十七社の勅祭社の内、九州では当宮と宇佐神宮の二社のみが勅祭社と定めれられている。
仲哀天皇は非常に御英邁(ごえいまい)にあらせられ早くから海外発展を策され、この香椎の都を遷され、その準備中に崩御になられたので、神功皇后は天皇の御遺志を体し御女性の身を以て御自ら三韓御渡航の雄図を果され、初めて国際国家としての日本の地位を確立されたものといえましょう。これによって大陸文化が続々と導入され、日本文化は急速に向上発展を見るに至ったのであります。
この御壮挙は当時としては並々ならぬ御苦労があられたものと察せられます。
応神天皇は御子様であり、御孫様当られる仁徳天皇の御代には国民生活安定し彼の「民のかまどは賜はひにけり」の御歌となって現れ、その御徳は日本一の壮大堅固な仁徳陵として現存している。その見事な土木技術を始め、建築、繊織、工芸、美術等のあらゆる文化の基礎を開かれたのも当宮御祭神の勝れた御神徳を受けられ、やがて絢爛たる奈良平安の文化の花が開かれていったのであります。

本殿 重要文化財香椎造と称し我国唯一の建築様式で現在の御本殿は享和元年(一八〇一)筑前藩主黒田長順公の遵式縮小の再建であります。

綾杉 神功皇后三韓より御帰還の節、三種の神宝を埋めてその標(しるし)に杉の小枝を挿し神霊をこの杉に留め給ひ仲哀天皇の御側近く永仕祈られ大和にお帰りになられた。昔からこの杉の葉に守り札と不老水を添えて朝廷に奉っている。
この杉は普通の杉と異なり葉は海松の如く大小の葉恰も(あたかも)綾の如く交互に出ているので綾杉と称し、樹齢千八百年根の直径五メートル若芽根より生じ、古来植継ぐことなしと伝わる。

参拝標石 この標石は恐らく奈良朝以前のものと推定される五箇の石で、勅使館前「御休憩所」中門階段下左右に「御手水所」「御祓所」中門内左右に「御脱剣所」「衛士居所」と高さ六十センチの標石が立っている。これは勅使又は太宰師(太宰府長官)が参拝の時昇段までの順序を指示した石で、香椎宮にのみある貴重な文化財です。

香椎宮年間祭事

歳旦祭 一月一日
節分祭 二月三日
紀元祭 二月十一日
祈年祭 二月十七日
古宮祭(春) 三月六日
春季氏子大祭 四月中旬
 ※隔年に神幸式(稚児行列)あり
扇としょうぶ祭り 六月第二土・日
夏越の大祓 六月三十日
秋季氏子大祭 十月中旬
 ※流鏑馬神事あり
例祭 十月二十九日
 ※畏き辺りよりの御幣帛が奉納される
新嘗祭 十一月二十三日
古宮祭(冬) 十二月六日
御煤拂祭 十二月二十九日
師走の大祓 十二月三十一日
除夜祭 十二月三十一日
※月次祭 一日・六日・十七日

神功皇后様が「とこしへに本朝を鎮め護るべし」と祈りこめられてお植えになった杉で紀元八六〇年(西暦二〇〇)のことであります

御神木 綾杉

ちはやふる香椎の宮のあや杉は
 神のみそきにたてる成けり 読人不知 新古今和歌集

秋立つや千早ぶる世の杉ありて 夏目漱石

沙庭斎場
仲哀天皇の進取革新内外政策は 開闢以来の大偉業なりし為め 常に沙庭を樹て神教を乞請された聖地である 沙庭が国史に現はれたのは此地が最初である

棺掛椎
仲哀天皇の御偉業を完遂せんとし給ひ 神功皇后は天皇の喪を秘し 天皇の御棺をこの椎木に立て掛けられ 恰も天皇親臨の御前会議を開かれた この時御棺より薫香漂ひたるにより 香椎の名起るとの地名伝説もあり

摂社 古宮大明神社址

祭神 仲哀天皇
社格 香椎宮摂社
由緒 神亀元年十二月ニ十日(西暦七ニ四年)仲哀天皇 神功皇后を併祀する香椎庿とし 新宮に遷宮されてより 年を経て何時しか(恐らく平安末鎌倉初期)香椎廟が普通神社の如く取扱はれ 祭神も神功皇后一柱とせらるるに至り 仲哀天皇の御神霊を聖地に移し摂社として祭る 大正四年十一月十日仲哀天皇を香椎宮に御加列になり又本宮に移し祭る 今旧宮地の玉垣のみ残れり

仲哀天皇訶志比宮址
帯中日子天皇(仲哀天皇)筑紫訶志比宮治天下也 と古事記に記せる宮址にして、天皇の八年正月二十一日(西暦一九九年)定都

仲哀天皇崩御の地
天皇は開闢以来の進取革新の内外政策を御実行されて居たが 惜しくも九年ニ月六日(西暦ニ〇〇年)この宮にて崩御 御年五ニ歳 御陵は大阪府藤井寺市 恵我長野西陵なり

仲哀天皇崩御の大偉業
天皇の大偉業は実に広大にして 其の一端が神功皇后の三韓征伐である 此の宮が策源地であったために大本営址として記念碑が建って居る 今日我国が世界の独立国として 平和にして文化国として雄飛し居るは 実に其の基を開かれた天皇の大偉業による 此故に此宮は平和にして文化国日本の発祥地なり

香椎廟址
祭神 仲哀天皇
創建 仲哀天皇の九年ニ月六日(西暦ニ〇〇年)
社挌 式外無位勲 国史現在社
由緒 仲哀天皇崩御されるや 直ちに天皇の神霊を訶志比宮に神功皇后鎮祭 明治以前天皇を祭神とせる神社皆無なり 朝廷廟として特別の尊崇を捧げらる 奈良朝に大宰府の官人京より下る時先づ香椎に参詣し始めて入府す、春秋の大祭には帥国郡司を引連れ必ず参拝し宣命を奏するを例とせり
遷宮 養老七年ニ月六日(西暦七ニ三)神功皇后の神託により香椎廟に皇后を併祀する為朝廷新宮を創建し神亀元年十ニ月(西暦七ニ四)遷宮す これ現在の香椎宮なり古宮の名これより起る

香椎宮略誌
福岡市東区香椎鎮座

一、御祭神 主神 仲哀天皇 神功皇后 配祀 応神天皇 住吉大神

一、御由緒 香椎宮は仲哀天皇九年(二〇〇)神功皇后躬ら祠を建て仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります
次で、神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(七ニ三)に皇后御自身の御神託により朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め聖武天皇の神亀元年(七ニ四)に竣工したもので此の両宮を併せて香椎廟と称した
明治以来には官幣大社香椎宮と称し戦後は香椎宮と称している

一、皇室国家の尊崇 香椎廟は天子の宗廟にして廟号を以て他の神社と異なる特別の御崇敬を捧げられ 奈良平安このかた廟司以下六百十余人の奉仕団また千二百町歩の神領を寄せられ国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ現在も勅祭社であり 十年毎に勅祭が斎行される 過去不幸にして社殿炎上の折はその都度最も重い廃朝五日を仰出されている 他社の場合は重くて三日の廃朝である

一、御神徳 仲哀天皇(足仲彦天皇・人皇十四代)八年(一九九)筑紫の橿日宮に坐しまして天下治しめし率先内治外交に御精励のさなか御志なかばにして俄に崩御遊ばされました 神功皇后(氣長足姫尊)は御遺志を継がれ 神祇の教を被け御懐妊の未を以て躬つから国内を平定せられ 更に進んで船団を率い三韓御駐輦の壮挙を果され 初めて国際国家としての日本の地位を確立せられました この御大業は正に神わざとして史上に輝き以後六百年に亙って朝貢あり帰化あり交流盛んにして国運愈隆盛に赴きました すなわち朝貢の有様は左の如く伝えられております
百済王 久氐・弥州流・莫古をして朝貢らしむ時に新羅国の調使 久氐と共に詣る 是に於て 皇太后(神功皇后)・太子誉田別尊(応神天皇)大に歓喜びて曰はく「先王(仲哀天皇)の所望したまひし国人今來朝けり 痛しき哉 天皇に逮はざること」と群臣皆流涕まざるは莫し -日本書記-
また以て切々たる御哀情を拝し且つまた香椎廟奉斎の所以を知ることができます かくて御子応神天皇は 八幡神として遍く信仰を集められ 御孫仁徳天皇は世界最大の陵墓たる仁徳陵によってその聖徳が偲ばれます
かの雄渾な土木技術を始め建築・工芸・縫織・文教あらゆる文化の恩恵は全く当御祭神の赫々たる御神威に淵源しやがて絢爛たる日本文化の花が開かれて行きます この国に生を享ける者の一日も忘るまじき御神徳であります ここにこの御神徳の片鱗を景慕して左の長歌を掲げます
筑前国怡土郡深江村負原海に臨める丘の上に二つの石あり 公私の往来に馬より下りて跪拝せずといふことなし 古老相伝へて曰く往古息長足日女命 新羅国を征討けましし時この両つの石を用ちて御袖の中に挿み著けて以て鎮懐と為す かれ行人此の石を敬拝すと乃ち歌を作りて曰く

かけまくは あやに畏し 帯比売 神の命
韓国を 向け平らげて 御心を 鎮め給ふと
い取らして 斎ひ給ひし 真珠なす 二つの石を
世の人に 示し給ひて 万代に 言ひ継ぐがねと
海の底 奥つ深江の 海上の 子負の原に
み手つから 置かし給ひて 神随 神さび坐す
奇魂 今の現に 尊きろかも
-万葉集-

一、御社殿並摂末社
・御本殿 御本殿の創建の古いことは判明しないが現在の御本殿は元正天皇が養老七年(七ニ三)太宰府に詔して九州全国の課役を以て改築を始められ聖武天皇の神亀元年(七二四)竣工した壮大な香椎廟の 形式其儘を伝えている 建築様式は香椎造りであって日本唯一の様式で重要文化財であります 現在の御本殿は享和元年(一八〇一)筑前藩主黒田長順公の遵式縮小の再建であり周囲は透塀で囲われている
・幣殿 幣殿は他社で拝殿と称している建造物であるが香椎宮では勅使御参拝の時御幣物を捧げられる所であるので古から幣殿と称している 現在の幣殿以下の建造物は皆明治三十一年追遠会によって順次建造されたものである
・拝殿 本宮の拝殿は幣殿の前の勅額「香椎宮」のかかっている建物
・中門 社殿前の単層の御門で左右に廻廊を廻らした欅造朱塗の御門である
・楼門 重層の雄大な建造物で総欅白木造りで左右に筋塀がある 天正十四年(一五六八)戦火により焼失したが 明治三十六年(一九〇三)再建された
・勅使館 十年毎の勅使参拝の時勅使が御宿泊になる御殿
・勅使参拝標石 此の標石は恐らく奈良朝以前に建てられたと推定されている五箇の標石で勅使館前に「御休息所」中門階段下左に「御手水所」同右に「御祓所」中門上の左に「御脱剣所」同右に「衛土居所」という高さ六十糎の標石が立っている これは勅使又は太宰の帥が香椎廟に参拝した時の昇殿迄の儀式の順序場所を指示した標石で香椎宮だけにある貴重な標石である
・摂末社
 武内神社 本殿左側垣外にある武内宿禰を祀る
 巻尾神社 本殿右側垣外にあり中臣鳥賊臣大連を祀る
 鶏石神社 中門下綾杉の側にあり鶏を祀る日本唯一のお宮で子供の夜泣きなどに御利益ありとの信仰がある
 稲荷神社 鶏石神社と並んで祀られている五穀豊穣商売繁昌の神として参拝者多し
 その他十数社の末社がある

一、古宮 仲哀天皇の皇居橿日宮の跡であり又神功皇后が自ら仲哀天皇の神霊を祀られた香椎宮創建の地でもある 以前は仲哀天皇の神廟があったので「古宮」と言い仲哀天皇の御棺を掛けたと伝うる棺掛椎(御棺を掛けた時に異香が漂ったので香椎といいこれがやがて地名香椎の起源となる)が六角の玉垣の中にある

一、御島 本宮の西方海上八百米に鳥居の立っている島である 此の島は神功皇后が御渡海に際し神々の当否を占われた聖地と日本書記にも伝えている島で現在は綿津見神をお祀りしている

一、御神木 『綾杉』神功皇后が海外より御帰朝の際三種の宝を此所に埋め鎧の袖の杉枝を挿し「永遠に本朝を鎮護すべし」と誓いを立て祈りを籠め給うたものが大木となった 又皇后が大和へ御帰還の際御自身の神霊を此の杉に留め仲哀天皇の御側に永仕を祈られたので国家の鎮護として昔からこの杉の葉に守札と不老水を添えて朝廷に奉った 又太宰の帥に新任された人は必ず本宮に参拝し神職からこの杉葉を冠に挿すことが恒例であった 此の杉は普通の杉と異り葉は海松の如く大小の葉恰も綾の様に交互に出ているので綾杉と称している 幾度か神殿と共に焼けた事があったがその度毎に植継ぐことなく今日猶空高く聳えている
千早振る香椎の宮の綾杉は神のみぞぎに立てるなりけり (新古今和歌集)
の歌で有名で昔から多くの詩歌に詠まれている

一、不老水 三百年の長寿を保ち五朝にお仕えした武内宿禰が掘った井戸で香椎宮創建以来毎年正月朝廷に献納している不老長寿痼疾を除き頽齢を延す霊泉である

一、亀乃池つつじ山 綾杉東南の神苑にある池は「亀乃池」と称し 大正十一年貞明皇后御参拝の際 亀を放生された由緒ある池である この池を囲むつつじ山には千六百株のつつじがあり 花時には桜松楓等と満山調和して見事である

一、御池の菖蒲 本宮楼門下の魚型を成す約五百坪の御池に花菖蒲二千株香椎やろう会の奉納により咲きわたり参拝者思わず杖をとどめ暫鑑賞に酔う

一、勅使道 頓宮から本宮に至る約一キロの雄大な樟樹のトンネル道で正に日本一の勅使道である 此の道は昔は神の道で神幸式にのみ使用したものであったが大正十一年貞明皇后の御参拝記念事業の一端として整理福岡県下の各種団体の苗木奉献によって今日の盛観を呈している

一、頓宮 香椎潟を眼下に見 志賀、能古、玄海、相の島の諸島より日本海を見渡す景勝の地にあり隔年の御神輿の渡御がある
一、万葉歌碑 頓宮の境内に明治二十一年に建立された歌碑で日本に於ける万葉歌碑の白眉である
九五七 いざこども香椎の潟に白妙の袖さえぬれて朝菜摘みてむ 帥大伴卿
九五八 時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな 大弐小野老朝臣
九五九 往き還り常に我が見し香椎潟明日ゆ後には見むよしもなし 豊前守宇努首男人
の三首が万葉仮名で書かれて居る 著者は内大臣三条実美である

香椎宮
歴史散策ご案内
発行 香椎宮歴史散策案内 大看板製作実行委員会 平成15年3月

おすすめの散歩コース
神代、人間の歴史が始まる頃からの足跡を残す、香椎宮とその周辺は、数々の見どころでいっぱいです。時間のある方、ない方に、3つのコースに分けて、散歩道を紹介します。

頓宮・本殿コース
頓宮(JR香椎より5分)⇒薬師様(下組)⇒平野神社⇒朽瀬神社、貞明皇后行啓記念碑⇒しょうぶ池⇒楼門・綾杉・扇塚⇒本殿・巻尾神社

本殿・不老水コース
しょうぶ池⇒楼門・武内神社⇒綾杉・つつじ苑⇒本殿・巻尾神社⇒古宮、仲哀天皇大本栄跡⇒薬師様(上組)⇒不老水

たっぷり1日コース
御島→浜男神社→胄塚→頓宮→参道→薬師様(下組)⇒平野神社→朽瀬神社→貞明皇后記念碑→しょうぶ池⇒社務所・綾杉・本殿etc.⇒古宮→仲哀天皇大本栄跡→薬師様(上組)→印鑰神社⇒不老水→高陪神社→報恩寺⇒大槙→十三仏奥の院

香椎宮の歴史・・・
香椎宮は古来香椎廟と称せられ、人皇十四代仲哀天皇はこの地に皇居を営まれた(古宮)。これを筑紫の橿日宮といい、香椎という地名のおこりにもなっています。
熊襲の平定に来られたものだが、不幸なことに志なかばにして仲哀天皇は崩御されました。その御胸中を偲び、見事に継いだのが、神功皇后。御島で男装に扮して、九州はもとより三韓など海外へも国威を知らしめました。海外からの朝貢はその後絶えることなく、同時に文明も陸続として導入されました。山陵でもなく、神宮でもない橿日独特の廟という名称で祭祀が続けられてきました。これは御歴代中ただ橿日宮の天皇皇后にのみ捧げられた特別の御待遇であると伝えられています。
代々の天皇陛下とゆかりも深く、明治前までは毎年不老水を京都御所まで届けたり、逆に十年に一度は天皇陛下から直々にご先祖様への貢物が届けられる(勅使が来られる)という伝統行事も。本殿は香椎造りといい有名でもある。どうぞこの機にじっくりご参拝下さい。

香椎宮祭事暦
歳旦祭 一月一日
節分祭 二月三日
紀元祭 二月十一日
祈年祭 二月十七日
古宮祭 三月六日
春季大祭 四月中旬
追遠記念祭 四月二十九日
扇としょうぶ祭 六月第一土・日
大祓 六月三十日
献茶祭 十月中旬
秋季大祭 香椎宮流鏑馬 十月中旬
例祭 十月二十九日
文化の日祭 十一月三日
御加列記念祭 十一月十日
七五三祭 十一月一日~三十日
新嘗祭 十一月二十三日
古宮祭 十二月六日
天長祭 十二月二十三日
御煤拂祭 十二月二十九日
大祓 十二月三十一日
除夜祭 十二月三十一日

全国十六社中の一社
勅祭社 香椎宮

アクセス方法
《電車をご利用の場合》
JR:香椎神宮駅より徒歩5分 香椎駅より徒歩15分
西鉄:香椎宮前駅より徒歩12分

《バスをご利用の場合》
西鉄バス:天神郵便局前より28B 27N 27B 約30分(都市高速経由)「香椎宮前」下車

《車・タクシーで来社の場合》
九州自動車道『福岡IC』より約10分
福岡都市高速『香椎浜IC』より約10分

表紙「香椎宮」文字 香椎宮拝殿の額より
花山院定誠/かさんのいんさだのぶ(1640-1704)
江戸時代前期の公卿、正二位内大臣の指毫

<祈願受付中>
当宮では毎日、各種祈願・出張祭典を行っております。家内安全・初宮詣・厄除・安産・交通安全・商売繁昌・地鎮祭・竣工式・家祓など。詳しくはお問い合わせ下さい。

香椎宮 〒813-0011 福岡市東区香椎4-16-1
TEL:092-681-1001 FAX:092-681-1011 http://kashiigu.com

主神
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 国家安寧 世界平和 家運隆昌の神
神功皇后(じんぐうこうごう) 外交 子授け 安産育児 芸能上達 土木治水の神

配祀
応神天皇(おうじんてんのう) 国家繁栄 厄除開運 武運長久 成功勝利の神
住吉大神(すみよしおおかみ) 清祓 除災招福 海上安全 交通安全の神

香椎宮は仲哀天皇九年(200)、神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります。次で、神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723)に皇后御自身の御神託により、朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め、聖武天皇の神亀元年(724)に竣工したもので、此の両宮を併せて香椎廟と称しました。明治以来には官幣大社香椎宮、現在は香椎宮と称しております。

勅祭社(ちょくさいしゃ)
古代より朝廷の崇敬が極めて厚い神社に天皇陛下よりの御弊物を奉り、宣命を奏上する方を勅使とよび、その勅使を迎えて執り行う祭儀を勅祭といいます。香椎宮は全国に十六社ある勅祭社の一社です。当宮勅祭は十年毎に執り行われています。

本殿 香椎造(かしいづくり)
本殿は七二四年に建立され、一八〇一年に第十代福岡藩主黒田斉清(長順)により再建されたものです。建築様式は入母屋造平入が基本となって、様々な様式が用いられ、複雑な屋根の形や車寄の特徴から「香椎造」とよばれています。

御神木 綾杉(ごしんぼくあやすぎ)
神功皇后が三韓より御帰還され剣・鉾・杖の三種宝を埋め、そこに鎧の袖に挿していた杉枝を「永遠に本朝を鎮護すべし」と祈りを込め植えられて成長したものです。葉が綾の様に交互に生えているので綾杉といわれ、国家鎮護の象徴として古来よりその杉葉を朝廷に献上しています。

霊泉 不老水(れいせんふろうすい)
仲哀天皇・神功皇后の家臣、武内宿禰がこの泉の水を汲み、食事と酒を調えて三百歳余の長寿を保ち得たと伝えられる事から「不老水」と呼んでいます。毎年正月綾杉の葉・椎茸と共に皇室に献上されています。日本名水百選に指定されています。

勅使道(ちょくしどう)
海に続く楠並木道。香椎宮参道は勅使道と呼ばれ、天皇の使者と神幸式のための道でした。大正十五年福岡県下の各種団体の苗木奉献によって整備され、美しい楠木の景観になっています。

香椎宮起源の地古宮(ふるみや)
仲哀天皇が国家鎮護の拠点とした橿日宮の跡地で、志半ばここで崩御された御霊は大正四年までここに祀られていました。かつては仲哀天皇の御霊を祀る香椎廟と呼ばれ、地名となった御神木「香椎」は今も残っています。

神幸式(じんこうしき)
春季氏子大祭では、御神輿行列も二年毎に行われ、本殿を出発し万葉歌碑がある頓宮までお下り・お上りの二日間をかけて、三台の御神輿と古式に則った装束姿の地元民、稚児の行列が参道を華やかに進みます。神功皇后の命日である十七日の前後に執り行われます。

流鏑馬神事(やぶさめしんじ)
秋季氏子大祭の神事の一つで、馬上から射手(いて)が狙った的は縁起物として持ち帰ることが出来ます。力強く走る馬の姿を一目見ようと、馬場は多くの参拝者で賑わいます。

香椎宮奉納獅子楽(かしいぐうほうのうししがく)
福岡県指定無形民俗文化財
神事の最中に舞う迫力ある雅楽で古くから獅子舞ではなく獅子楽と云われます。獅子頭に触れられれば健康と開運をいただけるといわれ、獅子に噛まれるお子さんの微笑ましい姿も定番です。春秋の大祭、扇としょうぶ祭で奉納されます。

御島神社(みしまじんじゃ)
香椎浜の御島に鎮座する香椎宮の末社(まっしゃ)です。神功皇后が御渡海に際し神の教えの当否を占われた聖地と日本書紀にも伝えられる島で、綿津見神をお祀りしています。

香椎宮祭事暦

元旦 歳旦歳(さいたんさい)

1月15日 とんど祭(とんどさい)
小正月十五日の夕方から行われる火祭りです。お守り・お札や新年の門松・しめ飾りを積み上げ、薄闇の中で豪荘に燃やします。灰を持ち帰り庭などにまくと厄除けになると云われます。

2月3日 節分祭(せつぶんさい)
豆まきで鬼をはらい福を招くおなじみの行事も神事の一つです。福をいただこうと多くの子ども連れで賑わいます。年男・年女の厄除祈願も併せて行われます。(要予約)

2月11日 紀元祭(きげんさい)
2月17日 祈年祭(きねんさい)
3月6日 古宮祭(ふるみやさい)

4月中旬 春季氏子大祭(しゅんきうじこたいさい)
香椎宮奉納獅子楽
神幸式

4月29日 追遠会記念祭(ついえんかいきねんさい)
5月12日 軍艦香椎慰霊祭(ぐんかんかしいいれいさい)

6月第二土・日 扇としょうぶ祭
菖蒲池の花しょうぶを楽しむ、氏子主催の香椎名物のお祭りです。露店、技芸・演芸奉納で賑わう中、厳かに菖蒲初苅神事が行われます。御神木「綾杉」にちなんだ綾杉太鼓も壮観です。

6月30日 夏越の大祓(なごしのおおはらい)
気づかないうちに身についた、罪や穢れを祓う半年の一度の神事です。大晦日にも行われます。「人形(ひとがた)」を身代わりに清め祓いを行います。どなたでも参加できます。(事前受付可)

10月中旬 秋季氏子大祭(しゅうきうじこたいさい)
流鏑馬神事
香椎宮奉納獅子楽
踏歌奉納(とうかほうのう)

10月29日 例祭(れいさい)

秋冬期間 七五三祭(しちごさんさい)
神功皇后は、応神天皇を御懐妊ながら石を懐に抱いて出征し、戻られて無事ご出産されたことから聖母大明神と信仰され全国の聖母伝説の起源の地と云われています。安産・家内安全・子ども成長の御神徳祈願で賑わいます。

11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
12月6日 古宮祭(ふるみやさい)
天皇誕生日 天長祭(てんちょうさい)
大晦日 年越の大祓(としこしのおおはらい)
大晦日 除夜祭(じょやさい)

※毎月1・6・17日 月次祭(つきなみさい)
ご朱印  
鎮座地区 福岡市東区
郵便番号 813-0011
所在地  福岡市東区香椎4丁目16-1付近
地図座標 33.653539,130.452704
公式HP  https://kashiigu.com/
福岡県神社誌
【社名】 香椎宮 [A00-0001]
【所在地】 糟屋郡香椎村大字香椎
【祭神】 仲哀天皇、神功皇后 配祀 応神天皇、住吉大神
【由緒】 仲哀天皇即位八年九月、天皇神功皇后と共に橿日宮に御駐輦熊襲及び三韓征討の御軍議中、翌九年二月 天皇俄に崩御あらせられしにより、皇后躬ら其の地に祠を建て天皇の神霊を斎き祀り給ふ、是れ香椎宮の濫觴なり。
神功皇后御帰幽の後約四百五十年、元正天皇の養老七年神功皇后の神託によりて朝廷特に九州に詔して課役を起し、仲哀天皇神祠の側に新に社殿を造営し、工成りて皇后の神霊を鎮祭し給ふ、時に聖武天皇の神亀元年なり。爾来両宮を合わせて之を香椎廟と称し、祭祀に軽重の差は無かりしも、時勢の変遷により何時しか神功皇后の神祠のみを香椎宮と称し、仲哀天皇の神祠は古宮の名称の下に摂社の姿となりしが、大正四年十一月十日勅旨により古宮より御遷座仰出され、皇后と御同座に奉斎せしめ給ひしより、現今天皇、皇后相竝び座して御神威彌々赫々たるに至れり。本宮には古来氵色氵沓に勅使を下し給ひ、即位、大嘗、遷都、変災、外寇等苟くも国家の大事には必ず奉幣の御儀ありしが、清和天皇の時三年に一度勅使を遣はして神服を加へ天祚を祈り給ふこととなり、後伏見天皇の頃に至り、戦乱の為に奉幣の儀は中絶するに至りしが、櫻町天皇の延享元年甲子に之を再興せられ、六十一年甲子毎に必ず奉幣あらせらるる事となり、文化元年甲子、元治元年甲子にも前例により勅使御下向、天祚悠久国家安全の御祈願あり。更に大正十四年勅使御下向あり、以後十年毎に勅使御差遣の御沙汰ありて稍旧儀に復するに至れり。
応神天皇、住吉大神の配祀年月由緒等不詳。
一、香椎宮編年記曰、養老七年二月六日神功皇后託宣ありて曰く、昔年我足仲彦天皇の神明を安置する香椎の古宮の許に於て三種の重器(今註御剣御鉾鐵御杖)を埋め其上に植るに鎧の袖に挿る杉を以てして誓て曰、当来此に垂跡して盡末来際までもて敵国を降伏し本朝を鎮護すべしと。此故に今香椎に示現し天宝剣を降し地霊鉾を奉り方に神廟を造営して聖母大神と崇奉す可しとなり。仍これを太宰府より朝廷に奏せしかば、即時に詔て課役を九州に出して大廟を建つ、神亀元年冬十二月ニ十日本宮先づ成りて哿襲聖母大神と唱奉り、殿は南面す。朝廷の尊崇は当廟を伊勢大神宮に続き宇佐は是に準せり、勅使を氵色氵沓に降し即位及国家の事小大となく幣を奉じて告玉へり云々。又詔曰西海を巡視し九州の諸府を領する者は先当廟を詣し畢て其の地に就くべしと云々。又曰本宮先成て是より漸次に諸の当社落慶せり云々。(今註、香椎宮編年記は大宮司三苫重国編纂にして、其後大宮司武内氏信重編せしを後人又続記せしものなり。本宮鎮座の事を始め年中祭祀歴朝の奉幣臨時の勅祭等を記し、養老四年に起り延享元年に畢る。然るに此本の説を筑前国続風土記等に載せざるは、天正十四年本宮兵燹の時当時の大宮司三苫基宣神宝及編年記等を携へ乱を避けて他邦に寓して終に帰来せず。其後宝永元年に至り所縁の者寓所を訪ね宝器等を返さん事を促せども終に返さず、僅に此編年記と三苫氏が系図と両三紙を返せしのみ、故に貝原氏が続風土記等編纂の時此本他邦にありたるを以て見るに能はず、故に此本の説を載せざるなり。)
一、同記曰、又詔あって西征の時に供奉しつる功ある子孫を擇て神司と成し玉ふ、乃大中臣重春朝臣武内氏範宿禰大伴膳宿禰範綱清原真人氏貞なり、此を四党と名け爵級を給へり云々。又詔して神境を附し玉ふ、東は鴨山西は壱岐南は住吉北は尾呂是を四限とせり。又神領を賜ふ池田郷田百二十町山田郷田八十町和白郷七十町三苫郷七十町三代郷三十町原上郷四十町蒲田郷七十町新原郷ニ十五町今在家六十二町府之郷八十町八田郷十八町多々羅郷八十町諸田郷十八町宇瀰郷八十町なり。
一、同記曰、天平宝字四年正月年中行祭を定む、昔より今に至り当神主は日々沐浴して斗盛の御饌三膳毎朝献来るは先例の如し、正月元旦は一石ニ斗の神供を献して年頭の祭を行此を朔様供と云う云々。同日ホカイ二日朔様供を献して祭る三日如前云々。七日白馬の祭を行ふ云々。十三日踏歌祭を行ふ云々。十六日徒的を射る云々。十七日早天に神殿にて祈祷し此日札を国司太宰府に送る、又紙札一枚同前に祈祷して朝廷に捧ぐ、四党の内当大宮司に非るもの輪次に上洛して捧り云々。二月六日(今註此日は仲哀天皇崩御の日なり)二斗四升の供を古宮の神前に献て正忌祭を行ふ云々。此日太宰帥以下国郡司本宮の詣して再拝して帥奏すら(帥なき時は大少弐の中より此語を格にして奏す)明神等大八嶋国知志々倭根子天皇大前爾太宰帥某等率司々人止毛恐美恐美毛奏賜波久止奏し了り再拝両段して退出す。又武内社の前にて再拝して退く。(今註此事諸神社根元抄太宰府例等に見えたれども茲にあるを以て更に之を挙げず)毎年此日竝に十一月六日如此、是日毎年筥崎海人四十八尾の紅魚及び「ふかのみがき」四十八連酒団榼四十八器を献す、近海も同く魚鱗を献す。此は神功皇后征西の時筥崎の海人の祖幡鉾をもてる賞に内海の漁釣を許し玉へる貢税の為なり、九月九日も如此。又志賀の白水郎男十人女十人風俗楽を神楽所に奏す、此例も毎年此日と十一月六日とに同じ。(今註陰暦二月六日十一月六日に海藻介虫を志賀島村より二月六日九月九日十一月六日三度に毎年四十八尾の魚鱗を筥崎より献備する例今尚ほ存せり。)九月九日大給田の供を献す云々。十日平明に云々、神体を神輦に移し祓川の頓宮に行幸祠官音楽を奏して原上郷川上大明神の社に遷幸あり、此夜は神輦を行在所に止めて十一日暁に三苫郷龍王の社に遷幸す此皆神功皇后征西の時加護し玉ひし神なればなり、同日遷幸し玉ふ云々(今註此外朔望五節句等年中凡七十余度の祭典あれども事長ければ略之。)
一、筑前風土記曰(釋紀所引)到筑前国例先参謁于哿襲宮。
一、拾芥抄曰、香椎社者神功皇后廟成或称仲哀天皇無一定資綱曰仲哀天皇廟成允亮抄有所見与。
一、諸神根元抄曰、筑前国粕屋郡香椎宮(式外)或書曰哿襲宮昔足仲比古天皇之后息長足比売及大臣武内宿禰命今在此行見や謀伐新羅従爾己来便為廟宮后宮在東臣廟在西(今註ニ十ニ社註式にも此事見えたれ共略之。)
一、二十二社註式曰、長門国豊浦宮云々、従香椎宮依神託奉遷之。
一、本朝無題詩集に過門司関 釋蓮禅
 西鎮古関経過程 両三守者欲拘情
 門司因例雖加警社牒有威不憚行
 香椎廟行牒威権満日域抱関者不能拘留 (伴信友云当時此廟威権ありし事を知るべし)
一、姓氏録曰、摂津国皇別矢田部造云々、神功皇后筑紫糟氷宮御宇之時海中有物云々。
一、旧事紀国造本紀曰、筑紫香椎朝代以物部連祖伊香色男命孫因幡足尼定賜国造。
一、万葉集曰、神亀五年十一月太宰官人等奉拝香椎廟訖退帰之時、駐馬干香椎浦各述懐作歌。
 帥大伴卿
去来児等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜採手六
 大弐小野老朝臣
時津風応吹成奴香椎滷潮干汭爾玉藻苅而名
 豊前守宇奴首男人
往還常爾我見之香椎滷従明日後爾波見縁母奈思
一、続日本紀曰、天平九年四月乙巳遣使於香椎廟以告新羅無礼之状
一、香椎宮編年記曰、天平十三年正月十一日勅使を遣して新京に遷事を告給ふ。
一、続日本紀曰、天平宝字三年八月己亥遣太宰帥三品船親王於香椎廟応伐新羅之状
一、香椎宮編年記曰、天平宝字三年十月勅使を差して遷都せんと告給ふ。
一、続日本紀曰、天平宝字六年十一月庚寅遣参議従三位民部卿藤原朝臣巨勢麻呂散位外従五位下土師宿禰犬養奉幣干香椎廟以為征新羅調習軍旅(香椎宮編年記に此時復都の事をも告給へりとあり)
一、香椎宮編年記曰、天平神護元年十一月勅使を遣して重祚を告給ふ。
一、同記曰、宝亀元年勅使を差して天位に即く事を告給ふ。
一、同記曰、延暦元年勅使を差して宝祚に登事を告給ふ。
一、同記曰、延暦三年都を長岡に遷事を告給ふ。
一、同記曰、延暦六年夷賊の侵寇を降伏せんとの勅使あり。
一、同記曰、同十三年都を平安に遷事を告給ふ。
一、同記曰、大同三年勅使をして即位を告給ふ。
一、日本後紀曰、大同二年春正月辛丑遣使奉大唐綵幣於香椎宮
一、同紀曰、弘仁元年十二月壬午遣参議正四位下巨勢朝臣野足奉幣樫日廟賽静乱之祷也(香椎宮編年記に此時兼て天位を踐むことをも告げ給ふとあり。)
一、同記曰、弘仁十四年十一月甲戌差左兵衛督従四位上藤原朝臣綱継奉幣帛於樫日廟便以太宰府綿三百屯賜使(香椎宮編年記に此時四歳の児に神託ありて曰吾玉城に近づきて賊徒を平げ実祚を護るべし依て畴昔の小竹行宮を造営すべしと告給へり依て勅使左兵衛督従四位上藤原朝臣綱継朝廷に奏せらる即其地を點検し始て宮殿を建給ふ云々。其時古宮の香椎を分て彼宮にも植て神木とせん故に廟号を御香宮と崇奉れりと云へり。)
一、続日本後紀曰、天長十年夏四月壬戌遺従四位下行伊豫権守和気朝臣真綱奉御剣幣帛於香椎廟告新即位也。
一、同記曰、承和五年三月甲申勅曰遣唐使頻年却廻未遂過海云々。宜命太宰府監己上毎国一人卒国司講師不論当国他国擇年ニ十五年以上精進持經心行無変者度之九人香襲宮二人大臣一人云々。
一、同記曰、承和八年五月庚午朔遣従四位上和気朝臣真綱於香椎廟祈雨同五月乙丑遣従四位下勘解由長官和気朝臣仲世奉幣香椎廟。
一、同記曰承和十年冬十月癸酉遣使奉幣香椎宮為令宝位無動国家太平也。
一、同記曰、嘉祥元年十二月甲寅遣使奉幣香椎廟云々(香椎宮編年記に此時の勅使に和気朝臣真綱を遣されたるよし云へり。)
一、文徳実録曰、嘉祥三年八月戌辰遣散位従五位下高原王以宝剣名香綵帛等奉香椎廟。
一、同録曰、仁壽元年十月己酉遣大蔵少輔従五位下藤原朝臣良房向香椎奉宝幣。
一、同録曰、仁壽三年五月壬寅亦詔太宰府於香椎廟読大般若経。
一、香椎宮編年記曰、貞観元年十一月十六日勅使を遣して天業を継ことを告給へり。
一、三代実録曰、貞観六年八月十五日己巳是日筑前国香椎廟司以六年為任限(香椎宮編年記曰此時勅使藤原朝臣良房を差して四黨を以て六年任限にて交代し大宮司職を務むることを定たまふとあり。)
一、三代実録曰、貞観十二年二月十五日丁酉勅遣従五位下行主殿権助大中臣朝臣国雄奉幣香椎廟。
一、同録曰、貞観十八年春正月二十五日癸卯先是貞観十六年太宰府言香椎宮毎年春秋祭日志賀嶋白水郎男十人女十人奏風俗楽所着衣冠去宝亀十一年大弐正四位上佐伯宿禰今毛人所造也年代久遠不中服用請以府庫物造充之至是大政官処分依請焉。
一、同録曰、元慶元年正月ニ十一日遣従五位下行主殿権助在原朝臣友干向香椎廟奉幣剣等告以天子即位。
一、同録曰、元慶二年十二月十一日壬申太宰少弐十五位下島田朝臣忠臣等奏言橿日宮有託宣云新羅虜船欲向我国宜為之備二十四日乙酉遣兵部少輔従五位下兼行伊勢権助平朝臣季長向太宰府奉幣橿日八幡云々等大神其橿日八幡姫神々別奉綾羅御衣一襲金銀装宝剣各一以彼府奏有託宣云新羅凶賊欲窺我隙云々也。
一、香椎宮編年記曰、元慶二年十二月七日大菩薩託宣あつて曰く新羅王我国を傾けんと欲して軍兵起せり云々。先是貞観中に八幡宮を男山に勧請してより朝延□□の勅幣を止めて三年に一度勅使を差して神服を代て天祚を祈り玉ふ然れども国家の大事且即位等の時は必勅使あり。
一、同記曰、仁和元年勅使あつて即位を告給ふ。
一、同記曰、寛平元年四月十七日勅使をして天業を継ことを告給へり。
一、扶桑略記曰、寛平九年八月二十二日奉幣使散位従五位下和気真興於香椎廟(香椎宮編年記に此時の勅使は天祚に登ることを告玉はんが為なりとあり。)
一、香椎宮編年記曰、寛平九年十一月一日勅使を差して奉幣したまふ。
一、延喜式曰、凡橿日廟舎人一人大臣武内宿禰資人一人預得考之例又曰香椎宮守戸一烟。
一、同式曰、凡諸神宮司並橿日廟司以六年為秩限。
一、香椎宮編年記曰、延長八年十二月一日勅使を差して新に宝位の登ることを告給へり。
一、同記曰、承平元年十一月勅使あつて登極を告給ふ。
一、外記局日記曰、天慶元年十月九日云々。天皇(加)詔旨(止)掛畏(伎)香椎廟(乃)広前(爾)恐(美)恐(美母)申給(倍止)申(久)去六月十六日(爾)御心(乃)内(爾)祈申給(倍留)事有(天)掛畏(伎)八幡大菩薩(爾)御幣帛等(乎)令捧持(天)奉出給(爾)依(弖)掛畏(支)御廟(爾毛)体代(乃)御幣帛(乎)従五位下守右近衛少将兼中宮権亮小野朝臣好古(爾)令捧持(天)奉出賜(布)此状(乎)平(久)聞食(天)云々。
一、異本日本紀略曰、天慶五年四月二十七日庚辰奉幣宇佐八幡宮香椎廟石清水宮依賽東西賊徒討平之由也。
一、香椎宮編年記曰、天慶九年五月十五日勅使を差して登極を告給ふ。
一、扶桑略記曰、天暦元年四月十九日甲戊請外印太宰府云々。香椎廟幣帛使禄料符也(日本紀略同之。)
一、香椎宮編年記曰、天暦元年勅使を差して登極を告給ふ。
一、日本紀略曰、応和元年閏三月七日奉神宝於伊佐宮香椎廟祈去年内裏火並天変革命也使左少将源伊陟。
一、香椎宮編年記曰、康保四年十一月朔勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、安和二年十月六日勅使を差して登極を告給ひ同十一月朔勅使を差して大嘗会を行ふ事を告給ふ。
一、同記曰、永勧二年七月二十六日勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、寛和元年五月ニ十一日勅使を差して雨を祈給ふ、同ニ年勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、寛弘八年十二月十一日勅使を差して登極を告給ふ。
一、北山抄奉諸社神宝事條曰、寛弘例一所有二社以上者毎社一前云々宇佐香椎四員。
一、北山抄曰、奉諸社神宝事伊勢使如例宇佐並宮中京辺七社以殿上人為使云々、伊勢二具宇佐香椎四具云々。
一、香椎宮編年記曰、長和五年十一月朔勅使を差して登極を告給ふ。
一、左経記曰、寛仁元年九月二十日微雨依可被定一代一度奉幣早且退出風聞右中辨於攝政御前書定書云々、十月二日云々、西海道云々、奉除伊勢両書並宇佐香椎等之外者皆被奉御幣一棒云々。
一、同記曰、香椎姫宮並座石清水姫宮神宝前日取落不奉仍差御倉小舎人保重並神祇官人追可被奉也。
一、同記曰、召宇佐使右衛門佐良頼給宣命(香椎相加)
一、香椎宮廟宮記曰、寛仁元年十月二日丁卯右衛門佐藤原良頼朝臣をして即位のよしを告給ふ。
一、左経記寛仁二年條曰、伊勢度会宇佐二所云々。香椎云々。己上十一所各被奉金銀幣各二枚納平文筥在錦折立錦蓋一蓋付四角金銅鈴玉佩一流納平文筥在錦折立一尺鏡面納平文筥在錦折立金銅鈴一口付錦緒己上八物等納赤漆韓櫃一合以盤絵綃覆以赤綱結之平文麻桶一口平線柱一本平文桙一本在鐵身尻餝剣一腰付唐組縫物緒納赤漆細櫃在紫色折立以盤絵綃覆之赤漆弓一張箭四筋納赤漆細櫃但此外宇佐被漆奉御幣並御装束等云々。
一、香椎宮編年記曰、長元二年七月二十七日勅使を差して明鏡御剣を奉て宝祚の悠久国家の安寧を祈玉ふ。
一、同記曰、長元九年十一月二十八日勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、寛徳二年十二月朔勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、治暦四年十二月朔勅使を差して登極を告給ふ。
一、江家次第延久元年大神宝次第曰、上卿立伊勢召王賜宣命二通云々次上卿遷本座賜宇佐宣命二通一通宇佐(爾)御座(須)八幡大菩薩宝前一通香椎廟云々。
一、香椎宮編年記曰、延久五年正月十六日勅使を差して登極を告給ふ。
一、禁秘抄曰、永保四年香椎宮火承暦三年神宮外院火此等五箇日廃廟也。
一、香椎宮編年記曰、寛治元年九月十九日勅使を差して登極を告給ふ。
一、百練抄曰、寛治六年六月二十九日太宰府言上香椎廟御殿血散在状云々。
一、同抄曰、寛治七年十二月七日太政官符宣曰太政官符太宰府応以正六位上膳伴宿禰範宣補香椎社大宮司職事右得範宣去二月十七日解傭大宮司是先祖相伝補任来尚矣近則高祖父公武経行等也而範宣永保元年九月十日執行之処恒例神事有勤無怠然間任先例武実依譜第去寛治元年十月所補任也爰今年秩満巳畢幸相当其運誰成競望哉望請官裁任次第被補任者正二位行権大納言兼中宮大夫源朝臣師忠宣依請者府宣承知依宣行之府到奉行左中辧藤原朝臣左大史小槻宿禰寛治七年十二月七日。
一、同抄曰、嘉承二年十一月二十八日勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、保安四年十一月朔勅使を差して新に天業を継ことを告給ふ。
一、同記曰、永治元年十一月朔勅使を差して登極を告給ふ。
一、同記曰、久寿二年十一月二十九日勅使を差して登極を告玉ふ。
一、同記曰、保元三年十一月ニ十一日勅使を差して登極を告玉ふ。
一、同記曰、永萬元年十二月三日勅使を差して宝祚を継ことを告給ふ。
一、同記曰、嘉応元年八月二十七日勅使を差して宝位に登ることを告玉ふ。
一、同記曰、治承四年十一月二日勅使を差して福原の京に遷都のこと且登極を告玉ふ。
一、山槐記曰、治承四年八月二十七日宇佐和気使絹載之不載御馬一通香椎幣計被奉也云皆書紙屋紙入一筥並次第八幡宇佐香椎也上字書表書。
一、東鑑曰、元暦二年乙巳六月二十日筑前国香椎社前大宮司公友忽背領家命致濫行抑留造替遷宮之儀加之其身乍為前司押而行社務早可被行罪科之由社官等日来訴申関東仍今日追却其身可遂行遷宮若不承引遺別御使任法可致沙汰之旨令下知給(今註此時追却の下文今尚本宮に存在す。)
一、香椎廟宮記曰、文治二年十月ニ十一日甲午散位定康をして即位を告玉ふ。
一、同記曰、建久四年十二月十三日丙午左馬権頭藤原範実を遺して奉幣したまふ。
一、同記曰、建久七年十一月二十九日甲辰安藝守宗行をして奉幣したまふ。
一、同記曰、建仁二年十二月四日兵部権少輔平棟基をして即位を告玉ふ。
一、同記曰、元久二年十二月八日少納言源信定を遺して奉幣し玉ふ。
一、同記曰、承久元年十二月五日丁卯中務少輔源重房をして奉幣し玉ふ。
一、同記曰、天福元年四月十七日辛卯女醫博士有式をして即位を告玉ふ。
一、同記曰、仁治元年八月二十二日壬申典楽大允和気朝臣弘成をして即位を告玉ふ。
一、同記曰、宝治元年十二月二十四日勅使を差して即位を告玉ふ。
一、同記曰、建長二年十月二十一日丙午宮内大輔藤原朝臣氏光を差して奉幣し玉ふ。
一、同記曰、建長六年十二月二十六日甲午大内記藤原朝臣基長をして奉幣し玉ふ。
一、同記曰、正嘉元年十二月二日壬午民部大輔藤原兼倫をして奉幣し玉ふ。
一、同記曰、文永五年四月四日勅詔ありて香椎廟修復料として豊後国豆田に於て二百町寄投し玉ふ。
一、同記曰、文永八年五月朔日勅使をして奉幣し玉ふ、是去年当宮焼亡せしが今日新宮に遷幸あるに依て也。
一、同記曰、弘安四年勅使を遺して奉幣し夷賊を降伏せんことを祈給ふ、此後天下久しく乱て奉幣の礼断絶すること四百四十余年なり。
一、同記曰、建武三年足利高氏本宮を拝し軍勝を祈りて其報賽に神領糟屋郡多々良以下八百丁を寄進す。
一、同記曰、延久七年九月七日征夷将軍足利義満肥後の菊池を伐んと九州に下向し本宮を拝して祈願を籠自筆の願書を奉る。
一、同記曰、天正十五年関白豊臣秀吉本宮の神領を没収す。
同年十一月十日当国名嶋城小早川左衛門尉隆景本宮の衰を歎きて私領の内当郡にて池田郷内五十三町八反、山田郷内六町七反五丈、多々良郷内十四町七反同郷自作分三町七反、八田郷内十四町一反、同郷自作分七町四反、三苫郷内五町七反、和白郷内十五町五反半、原上郷内十二町二反、今在家郷内為惣御供料十七町一反半、新原郷十町以上百五十九町を寄附せり(香椎宮編年記同之)其義子秀秋の遺意に背き云々、当神領をも初めは半没収せり云々。秀秋北国に移されたる後当国を石田三成・大谷吉隆両人に預けらる、此時両人の計ひとして半残れる神領をも悉く没収す云々。是より無領の神宮とはなりにけり云々。
一、香椎宮編年記曰、天和三年八月六日従四位行侍従源朝臣筑前国主黒田光之公三十石の神領を寄附せらる。内田高二十三石一斗三升九合畠田六石八斗六升一合なり云々。
同九月十八日国主代詣を差す此より毎年正、五、九の月の十八日定例の代詣を遺し武運悠久を祈る。
一、延享元年甲子十月二十四日勅使正四位下行左近衛権中将兼周防権介藤原雅重朝臣を遺して幣帛を奉玉ふ。
一、延享元年十二月国主黒田継高神領七十石を加増す。
一、寛政七年六月五日国主黒田斎隆当宮に参詣す。是れ筑前風土記至筑紫国先参詣干香椎宮の例に随て諸神社参詣の最初なり。
一、文化元年三月十四日勅使正四位下行左近衛権中将兼中宮権亮藤原朝臣公説を遺て幣帛を奉ち玉ふ。
一、文政二年四月国主侍従源朝臣斎清神領五十石を増加し、武内神社にも神領十石寄附す合て百六十石なり(其配分目次は之を略す。)
一、嘉永六年十一月攘夷且国体安穏天下泰平宝祚悠久武運延長之御祈有之。
一、同七年二月十七箇日外夷懾服国家清平之御祈有之同年三月攘夷且宝祚延長武運悠久之御祈有之。
同年五月九月両度十七箇日宛外夷懾服国家清平之御祈有之。
一、安政二年正月五月九月三箇度十七箇日宛天下泰平宝祚長久万民安穏御祈有之。
一、安政三年正月、五月、九月三箇度十七箇日宛天下泰平宝祚長久万民安穏御祈有之。
一、安政五年四月五月九月三箇度十七箇日宛天下泰平宝祚長久万民娯楽之御祈有之。
一、安政六年二月、五月、九月三箇度十七箇日宛宝祚万歳天下泰平武運長久人民和楽之御祈有之。
一、文久二年十二月朝廷より玄米三十石を献し玉ふ。
一、元治元年六月ニ十一日勅使正四位下行左近衛権中将源通善朝臣を遺て幣帛を奉玉ふ。
一、明治四年六月国弊中社に被列自今官祭被仰出候事。
一、明治四年十一月十七日福岡県知事二品熾仁親王参向あらせられ大嘗祭を行はせ給ふ。
一、明治十八年四月二十七日官幣大社に列せられ、同七月五日福岡県大書記官従六位渡辺清を勅使として差遺され御昇格を告給ふ。
一、明治二十二年二月十一日勅使を差して皇室典範御治定憲法発布の御奉告あらせらる。
一、明治三十七年二月二十二日勅使を差して露国に対する宣戦の旨を奉告あらせらる。
一、明治三十八年十二月十一日勅使を遺して対露戦没の平和克復を奉告あらせらる。
一、大正三年九月三日独逸国に宣戦の旨を勅使を差して奉告あらせらる。
一、大正四年十一月十四日勅使を遺して大嘗祭の御幣帛を奉出し給ふ。
一、大正五年四月十七日勅使参向祭神増加奉告祭執行あらせらる。従是先大正四年十一月十日
一、官幣大社香椎宮 福岡県筑前国糟屋郡香椎村鎮座
右祭神仲哀天皇を加へ祭神(仲哀天皇神功皇后)二座と被仰出
右の通被仰出たるを以て同月十三日摂社古宮より仲哀天皇の霊代を本宮に奉遷し今囘勅使御差遺の御沙汰を拝受するに至れるなり其祭文如左。
天皇(乃)大命(爾)坐(世)掛巻(母)恐(伎)香椎宮(乃)大前(爾)掌典正六位立花寛篤(乎)使(止)為(氐)白給(波久止)白(左久)今度仲哀天皇(乎)此御社(爾)合(世)祭(良世)給(比志賀)故(爾)其由(乎)告給(布止)為(弖)御幣帛奉出(志)斎祭(良世)給(布)故此状(乎)聞食(志氐)天皇(乃)大朝廷(乎)始(米氐)仕奉(留)百官人等天下四方国(乃)人民(爾)至(留萬氐爾)伊加志夜具波延(乃)如(久)立栄(志米)給(倍止)白給(布)天皇(乃)大命(乎)聞食(世止)恐(美)恐(美母)白(須)
一、大正九年七月二十五日勅使を差して独逸に対する平和克復を奉告あらせらる。
一、大正十年三月一日皇太子裕仁親王殿下欧州各国御巡遊の途に上らせらるるに付皇后陛下の御思召に依り同年二月二十七日皇后宮主事従四位男爵三條公輝を御使として海陸安全祈願の奉幣あり。尚ほ同年九月一日無事御帰朝に付同月十四日報賽の為め更に同男爵を御差遺の上奉幣あらせらる。
一、大正十一年三月二十一日 皇后陛下御躬ら御参拝金燈籠一対及紅白絹等御奉納あらせらる。
一、大正十四年十月九日掌典正四位勲六等子爵長谷信道を勅使として臨時奉幣あらせらる。尚本年以後十年毎に臨時奉幣のことに御治定あらせらる。
一、昭和三年十一月十四日勅使を差して大嘗祭の御幣帛を奉出し給ふ其祭文如左。
天皇(乃)大命(爾)坐(世)掛巻(母)恐(伎)香椎宮(乃)大前(爾)福岡県知事従四位勲三等斎藤守圀(乎)使(止)為(氐)白給(波久止)白(左久)新代(乃)始(乃)大御典(止)今年(乃)此(乃)月(乃)今日(乃)此(乃)日天津御饌(乃)長御饌(乃)遠御饌(止)天皇(乃)大嘗聞食(左牟)為(乃)故(爾)礼代(乃)御幣奉出(志)斎(伎)祭(良世)給(布)事(乎)平(良気久)安(良介久)聞食(志氐)天皇(乃)大御世(乎)常磐(爾)堅磐(爾)斎(比)奉(利)茂御世(乃)足御世(爾)幸(波倍)奉(利氐)萬千秋(乃)長秋(爾)豊明(爾)明坐(左志米)給(比)親王王等(乎)始(米弖)皇朝廷(爾)仕奉(留)百官人等天下(乃)人民(爾)至(留萬氐爾)彌益々(爾)立栄(志米)給(倍止)白給(布)天皇(乃)大命(乎)聞食(世止)恐(美)恐(美母)白(須)
一、昭和十年十月九日勅使掌典従三位勲六等伯爵室町公藤を差して臨時奉幣あらせらる。
一、神木綾杉
綾杉は本宮の神木にして神功皇后三韓より帰り給ひ斯地に三種の神器(御剣御鉾鐡御杖)を埋め給ひ、其上に杉を植て後世の人杉の直なる如く直なる心を以て君に仕へなば朕必其人を守護るべし、後代までも朕霊を此杉に留て異国を降伏すべしを誓ひ給へり。夫より此杉繁茂して其葉常の杉に異なり海松房を見るが如く、交葉綾の紋の如くなればとて綾杉とは名付けりと。又養老七年二月六日同十二月二十八日の御託宣にも朕此杉に霊を留て長く異国を降伏し且杉の直なる如く正直の人を守るべしと告給へり。其後天平神護元年始て綾杉の葉を朝廷に献る、是より恒例となりて年々朝廷に奉ることとはなれり。然るに中世兵乱にて此事中絶し、又太閤秀吉朝鮮征伐の時神官等此杉葉を肥前名護屋に献ぜしかば太閤斜ならず喜び給ひ、外国への首途なればとて發向の諸将に頒ち給はりしと云ふ。又筑前国続風土記糟屋郡若杉山の條に曰く、大祖権現は伊弉諾尊を奉祀す神功皇后三韓征伐の前に此神にも御祈有て御帰朝の後其報賽に香椎の綾杉を分ち此所に植玉ひし故に分杉と号す、後世若杉と書けるは訛なりと云へり。其後延享元年本宮に奉幣勅使として飛鳥井中将藤原雅重朝臣参向ありし時より復綾杉の葉を朝廷に献すること再興ありて、明治元年迄百二十四年間年々神官の内より綾杉の葉に宝祚延長天下泰平を祈たる符札及不老水を取添て之を朝廷に献上す、爾御其例再び廃絶す。又古昔太宰帥に新任の人本宮に参入の時神主綾杉の枝を折て帥の冠に挿こと古実なりしと云ふ。金葉集に隆家卿太宰帥に二度なりて後の度香椎の御社に参りたりけるに神主ことのもとと杉の葉を折て帥の冠にさすとて詠める
神主大膳武忠
 千早振香椎の宮の杉の葉を再ひかさす我君そ君。
新後拾遺集十八に太宰帥にかへりなりて侍りける頃人のよろこび申しける返しに申して侍りける。
大納言経任
 知らさりき香椎のかさし年ふりて過にしあとに帰るへしとは。
新古今集に香椎の宮の杉をよみたりし者読人しらず。
 千早振香椎の宮の綾杉は神のみそきに立てるなりけり
檜垣家集に香椎の宮の祭の使にさされたる少弐の其日いみじく歌よむべかなりさることあらば如何せんとてわざと肥後に尋ねきてをりはしらず只つかひつへからん歌ひとつと伝ひたるに題も無ければ只思ひやりて
 千早振かしひの宮の綾杉はいく代か神のみそきなるらむ。
註に此歌新古今にのせて下句少し異り、読人不知「千早振かしひの宮の綾杉は神のみそきにたてるなりけり」。按ずるに本宮の祭には太宰府に居合たる大少弐其使を努めて且歌をも献ること定例なれば此時の少弐檜垣に代作を頼みしか、斯る例を追ひしや神官社頭にて歌よみ連歌せしに、何時の頃よりか怠り絶えしに維新より再び古例を興して神官社頭に会して月毎に歌をよみて献るをも一の儀とせり。
此外人見友元の綾杉賦、貝原篤信の同賦後敍等あれども略之。
[建造物]
一、本殿 建坪二十二坪三合五勺 三間社千鳥破風造檜皮葺飛椽高欄付 但内陣白木造其他彩色造
(造営の沿革) 神亀元年十二月創立、承暦元年二月五日本殿焼亡す。此災を朝廷に奏せしかば五箇日廃朝あり、仍て詔を下し管内の諸国に課して造営の功を促さる、年を踰て成す。永保四年二月七日にも火あり、朝廷五箇日廃朝あり、自餘承暦の儀に準ふ。文永七年二月十二日にも亦炎上す、朝廷廃朝先規の如し。鎌倉将軍家釣命を下して承暦の例に任せ管内をして造営せしめらる。(今註先是元暦の頃本宮造替のよし東鑑に見えたれ共其年月詳ならず)正和四年三月二十五日本殿囘録す。鎌倉征夷大将軍守邦親王此事を執柄北條相模守高時に計らしめらる、因て此課役を九州に點して造営せしむ、年を経ずして功成れり。
宝徳二年春本殿以下を修補せらる。文明元年十一月七日炎上あり、将軍足利義政釣命を下し正和の例に依て営建す。天正五年十二月十二日本宮造営して功成れり。此時足利将軍家衰微して釣命の沙汰に及ばず、依て豊後の大友義統之を支配す。天正十四年
七月薩摩の兵士隣村立花城を攻るの時本殿以下諸殿舎兵燹に罹り一時に灰燼す。同十五年筑前国主小早川右衛門督隆景本殿拝殿を造営すと雖も、末社以下は旧観に復するに及ばず。元和九年五月十五日大宮司武内氏続国廰に告げ士民の助力を請て尚不足あるを、国主従四位下黒田忠之力を戮せて造営功成れり。依て此日遷宮す。寛永十四年三月朔又焼亡す。同ニ十一年六月十一日国主忠之天正の例に依て造営す。享和元年七月十九日国主長順本殿以下を造替す、是今の本殿なり。元治元年六月屋上葺替周圍檜椽及正面左右車寄等仕替。明治十年十一月家上破損の個所官費を以て修繕。同二十二年六月保存金の内経常営繕費及社入蓄積金を以て屋上悉皆葺替、筥棟修繕庇新規仕替、樋廻り修繕。同三十七年八月より追遠会の費用を以て屋根葺替建物塗替建具改造地盤改築等の大修繕をなし、翌三十八年七月竣工。大正十一年四月十三日文部省告示第三百六十七号を以て古社保存法第四條により特別保護建造物の資格あるものと定めらる。
一、拝殿 建坪十四坪六合 屋根切妻流破風造檜皮葺四方飛椽高欄付向拝葺卸し流破風組物三つ枓備 但御拝床板框階段飛椽板を除く外彩色造
(造営の沿革) 神亀元年十二月創立以後の改造修繕等は本殿に同じ。文久三年十二月国主黒田家より新規建替自後破損の節は同家より修繕ありしも年月不詳。明治十三年二月官費を以て屋上葺替、明治十九年十二月同上、明治三十七年十二月より追遠会の費用を以て改築着手同三十八年十二月竣工。
一、渡殿 建坪三坪九合 屋根一方切妻流破風垂屋根檜皮葺神殿面千鳥破風腰根軒唐破風造 但床板飛椽板階木等を除く外彩色造
(造営の沿革) 神亀元年十二月創立以後改造修築等は本殿に同じ。文久三年十二月国主黒田家より新規建替。明治十年十一月官費を以て家上葺替箱棟板庇繕ひ樋廻り新規掛替。明治三十七年十二月追遠会の費用を以て改築着手同三十八年十二月竣工。
一、中門 建坪六坪九合三勺 屋根三つ母屋千鳥破風造檜皮葺組物出組にして重棰飛檐附 但彩色造
(造営の沿革) 天正十四年七月焼失以来久しく再建を見るに至らざりしが明治三十四年四月追遠会の費用を以て復古建築に着手、翌三十五年四月竣工。
一、楼門 建坪十一坪二合 総高基礎石上端より棟木迄四十三尺八寸 千鳥破風附三ツ母屋造檜皮葺
(造営の沿革) 天正十四年七月焼失以来、久しく再建を見るに至らざりしが、明治三十五年六月追遠会の費用を以て復旧工事に着手、翌三十六年六月竣工。
一、綾杉圍玉垣 延長十六間 八角形一面十二尺地覆石上端より棟上端迄五尺一寸二分四面神門附丹塗
(造営の沿革) 創建年度不詳、此建築の箇所は神亀元年創立ありし袖掛拝殿(香椎宮編年記に袖掛拝殿綾杉を廻る廊なりとある是也)天正十四年の兵燹に焼失せし跡に新築せりと云。宝暦十年前既に国主黒田家の修理所となりたれども年月不詳。元治元年同家より改造、明治三十九年追遠会の費用を以て更に改築す。
一、其の他建造物 幣殿、神楽殿、絵馬殿、神饌所、手水舎、鳥居、頓宮、勅使館、社務所
【特殊祭事】 特殊祭事としては代表的のものに四月十六日より十八日迄の春季祭あり。こは氏子奉仕の祭典にて大祭式に準じて行はれ、隔年毎に神幸式あり、此の御神幸は最も荘厳を極め其の供奉行列は往昔神功皇后三韓御征討に御出陣の陣容を模したるものにして殊に官幣小社志賀海神社より選出したる八人の水手は各櫓を捧持し、箱崎浦よりは八旗を捧じて供奉し、又当時の重臣たる武内大臣、大伴大連、中臣大連大三輪君、物部大連の代として氏子総代神前に於て抽籤に当りたる五人のもの其れぞれ従者を引具し、甲冑姿雄々しく供奉し、御神輿の前後には獅子楽、稚児供奉して勅使道を香椎潟なる頓宮に御神幸せらるるものなり。
【例祭日】 十月二十九日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿、楼門、中門及廻廊、神楽殿、絵馬殿、神饌所、手水舎、鳥居、頓宮、勅使館、社務所
【主なる宝物】 縁記一巻、頼朝卿下文一通、金色御燈籠一対、宣命二通、太刀九振
【境内坪数】 一萬五千五百九十二坪
【氏子区域及戸数】 多々良村、和白村、汐濱区、相浦区、香椎村、氏子戸数 約八百戸
【摂社】 武内神社(武内宿彌命)、巻尾神社(中臣鳥津大連)
【末社】 稲荷神社(保食大神)、印鑰神社(蘇我石川彌命)、朽瀬神社(羽田矢代彌命)、平野神社(大鷦鷯天皇)、高倍神社(武内宿彌氏連)、濱男神社、御島神社(綿津見神)、鶏石神社
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公開日  2013/02/10
更新日  2016/01/03
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