黒男神社
黒男神社は片山の麓にあります。祭神は神功皇后につかえていた武内宿禰です。武内宿禰を大将として兵士がこの山に陣をはったことから、「かため山」となり、それが「片山」となったと伝えられています。武内宿禰を祖と仰ぐ一族、阿部氏が社をつくり「黒男神」と唱えたと言われています。
かつては本殿・拝殿・玉垣・石鳥居などを完備していましたが、天正十四年(一五八六)、薩摩兵によって焼かれたと伝えられ、その後阿部氏によって再建されています。
咳を治す神様としても信仰されています。
平成25年 久山町教育委員会
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黒男神社由遠の概畧
第八代孝元天皇
-太彦命-武淳川別命-阿部家祖先
-第九代開化天皇-第十代崇神天皇
-彦太忍信命-屋主忍男武雄心命-武内宿禰
筑前国粕屋郡山田村字カタ山とゆう山麓に黒男神神社とゆう社あり。
鎮座の由来は人皇の始め神武天皇より第十四代の帝仲哀天皇の御代に始る。
仲哀天皇の御代日向の国に熊襲とゆう賊ありて勅命に順わなかったのでこれを討伐せんと都より筑前国香椎村に幸行され大宮を造られた。皇后(神功皇后)諸大臣と国賊討伐の議を計られ之を討たれたが利あらず香椎宮で神去り給うたのである。
討伐についての御神託をお聞取り給わらなかった事とて皇后は深く悲しまれ御神託の報いならんとして罪あらためんと香椎村の隣である山田村(昔は小山田村と云う)に斎宮を造られた。之れが聖母屋敷(上山田)である。
この斎宮に三月朔日を吉日として主ら神主となり七日七夜入り給うた。之の御神事の隙をついて賊の征来らん事を恐れ二月二十九日より武内大臣(宿禰)を大将としてカタ山に陣を張った。昔はかため山と云ったが中昔よりカタ山と云う。之の時皇后に随っておられた太彦命の御子武淳川別命もカタ山に陣してしばし足を止められている内に一子を挙げられ、その子孫が年月と共に繁栄し数十戸に及んでいる。之れが阿部家の先祖である。
このような由縁で武内宿禰の薨去後同氏人達は祖先であるとて後社を新築し大臣の霊を斎し黒男神社と唱え二十九日は由緒ある日として祭日とし祭祀を怠らなかった。
昔は本殿拝殿石の玉垣、石の鳥居が完備して神社として繁昌して居たが天正年中の世の乱れの時薩摩の軍兵が立花城を征し折兵火にかかり焼滅しその後幾多の災禍を経て文政八年本殿を再建した。今日の本殿が之れなり。
明治の代に入り玉垣、鳥居も再進された。同氏の人々の敬神厚きにより遠近の郡村より詣人が絶えなかったと云う。
武内宿禰は第八代孝元天皇の御孫屋主忍男武雄心命の御子で第十二代景行御代より成務、仲哀、神功、應神、仁徳の六代におつかえした名臣であり百司をすべ万機を司どる国家の棟梁であった。
祭日
毎年二月二十九日は祈念の祭
六月二十九日は全氏人の斎籠
九月二十九日は新嘗祭で毎戸より幣代を捧げる
又遠〼〼〼〼う大祭を〼〼執行して来た。
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