【社名】 大森神社 [A00-0140]
【所在地】 宗像郡上西郷村大字上西郷字ヤケミドウ
【祭神】 伊弉諾命、水象女命、事代主命、伊弉冊命、大山祇命、石名姫命
【由緒】 伊弉冊命以下三柱の大神は嘉元二甲辰年河津駿河守重房の本国氏神を勧請合祭し六座とす宗像社記曰飯盛小盛神社と有り後世大森神社と改む則七十五社の一也而て蓑生郷宗社也小盛に鎮座なりしが嘉元二甲辰三月河津駿河守重房再建し又延元年中足利尊氏改建し神田を寄附す又文明の頃より大内政弘祭典料四町寄附祭祀を興隆す享保の末社殿焼失其後当所に移転社殿新築す明治五年十一月三日村社に被定。又社説に曰く、蓑生郷(上西郷、下西郷、津丸、久末、手光の五箇村を云ふ)の宗社なり。延元年中足利尊氏当郡の諸社に祈願の事有つて宗像大宮司氏俊に命じて当社をも営興し神料四町等寄附。爾来年々祭祀最も厳重也しと後世度々の兵乱に当社も囘禄し、神領は皆没収せられ、神人巫女離散せしかば、おのづから祭事も退転して遂に廃社に及ぶ。たまたま地頭河津掃部助弘業は多年之を患ふる処に当社の内大内政弘の領となる、則弘業を以て其代官職に補はる此時に至り社務職の人を再興して再び祭祀を執行はしめ度旨、弘業頻に愁訴有ければ、文明十一年十一月政弘より神領八町余寄附、弘業をして再興せしめたり。又永正八年洛北船岡山の合戦に於て河津民部少輔興光激戦して創を被る事数箇所也、己に戦場に顚倒し心沈迷して深淵に没するが如し。時に鮧魚有て興光を背に乗せ水上に浮びて我陣営に帰る、興光之れ故郷の産神大森権現殊には我祖の生国伊豆箱根両権現三島大明神の加護なりとし、厚く感謝をなし同九年春鮧魚使神を合祀せり、此の時より西郷三百町の産土人鮧魚を喰ふ事を禁制す、今に至る迄然るなり現今皮膚病の神として崇敬者甚だ多し。
【例祭日】 九月二十八日
【神饌幣帛料供進指定】 明治四十年一月十九日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿、御供殿、社務所
【主なる宝物】 古鏡二個、太刀三振、短刀一振、鎧一領、仏像一体、古鈴一個
【境内坪数】 六百二十二坪
【氏子区域及戸数】 上西郷区中 約二百戸
【境内神社】 春日神社(天児屋根命、保食神)、三島神社(大山祇命、諏訪神、龗神、熊野神、神武神、八幡神)六柱大神は今下西郷手光、津丸、久末の四箇村に氏神として奉祀大神等を本社の摂社として往古より境内に鎮座。荒神社(素盞嗚命)、貴船神社(高龗神、闇龗神)
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