梅津天満宮の由来
菅公は温厚な学者でありすぐれた政治家でもあったので五十九代宇多、六十代醍醐天皇の信用が熱く右大臣に任ぜられた。時に藤原時平はその上位の左大臣であった。時平は道真公の異常の出世を妬み、醍醐天皇にざん言した。天皇はこの時平の言に惑わされて遂に延喜元年(九〇一年)一月二十五日菅公に謀叛人として大宰権帥に左遷され一月二十七日には領送使も発令された。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ
自邸の梅花に別離を惜しむこの歌一首を残して道真公は幼い隈麿、妹の紅姫と門弟の味酒安行だけを同行せられ同年二月一日京の都を立たれ難波(大阪)の河内、道明寺に伯母の尼君とつきぬ名残に一夜を明かされ、ここから海時、瀬戸内を経て早鞆瀬戸(門司)響灘(若松、芦屋)-鐘ヶ崎(宗像)-志賀島-荒津(博多)と進み、上陸して太宰府到着という船路になるのであるが突然の航路はことに心細いものであるから海神に安全を祈られたことであろう。梅津沖の嵐、当地梅津浜の沖合で御座船は激しいみぞれに合って、かがり火は消え暗やみになり航行不能となっているところを漁船が漕ぎすぎようとしたのを見て領送使が「この船は右大臣菅原道真公の御座船で故あって京の都より筑紫の太宰府にお越しになるのであるが暗やみとなり難渋いたしておるので、かがり火を譲り受けたい」と所望した。その内に嵐となり船は砂丘に乗り上げ今にも転覆しそうになったので集まってきた梅津浦の漁師たちにより御船に着座のまま砂丘をのり越え避難させ御船に着座をつないだので「天神杭」の田字として残り又砂丘を「船越」その隣接の字を「梶ヶ原」と言い、いずれも舟にちなむ地名として残っている。ぬれながら下船された菅公と幼い二児は付近の漁家へ御休憩になられた。その夜にかぎって一番鶏が聲高々に鳴いた。その時は一番鶏の鳴き響きが出発の時刻であった。菅公は昨夜事の漁師達の志を感ぜられ身につけていた蓑と笠を浜辺で見送りする漁師の一人に与えられた。それから二年後の延喜三年(九〇三年)二月二十五日配所の榎寺で持病の脚気と精神的苦悩と物質的欠乏とにさいなまされて五十九才にて逝去されて安楽寺(今の太宰府天満宮)に葬られた。後に無実の罪が晴れ太政大臣正一位を追蔵された。この事を伝え聞いた梅津の漁師たちはその神徳を仰ぎ蓑と笠を神体として天満宮を勧請した。世にこの社を蓑笠天神または火乞天神ともいい梅津に祭られている。
宗像郡津屋崎町郷土史研究会 田中香苗撰
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