[0856] 志登神社(しとじんじゃ)
神社№  0856
神社名  志登神社(しとじんじゃ)
神社別名  
参拝日  2015/04/25
再訪日  2016/04/29
社格   県社
その他社格 
ご祭神  豊玉姫命、和多津見神、彦火々出見尊、息長帯姫命、武内宿禰命
由緒等  
志登神社

延喜式内社

弥生時代は、この周辺は、入江が東西から割り込み、伊都国の港を形成していた。
祭神は日本神話によれば海神国より帰って、この地に上陸されたという日向二代の妃「豊玉妃」であり、社殿は西方に向って建ち、昔は海上から参拝するようになっていた。

附近の遺跡

志登支石墓群(弥生前期の南鮮式巨石墳)(国指定遺跡)
岩鏡(支石墓)(弥生南鮮式巨石墳)(豊玉姫にまつわる伝説)

志登神社
(延喜式内社)

御祭神 豊玉姫命
相殿 和多津見神、彦火火出見尊、息長帯姫命、武内宿祢命

祭典
元旦祭 一月一日
祈稔祭 四月七日
千度汐井 七月中旬
例大祭(神事) 十月六日
新穀感謝祭 十二月三日

由来
志登神社は延喜式神名帳(西暦九〇五年醍醐天皇の時代)に記載せられた式内社で筑前十九社の一社に列せられた由緒ある古社である。
この事は延喜年間にこの地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、又、志摩郡の総社として郡民一体の崇敬を集めていた。

式内社 志登神社

歴史

延喜式内社(醍醐天皇(第十六代)平安前期九〇五年)の社格を授る
延喜神明帳に記載される(九二七年)
郷社と定められる(明治五年十一月)
福岡県社に定められる(大正四年十一月)昭和二十年終戦まで

社殿

構造 神明流造り
天正九年十一月(高祖城主)原田隆種(了栄)再建
元禄三年三月(黒田藩三代)黒田光之公再建
享保二年六月(黒田藩五代)黒田宣政公再建
明治三十年代 可也山地震にて崩壊 再建
平成二十七年七月 火災焼失後 再建
博多東長寺(元弘年間)が戦乱で焼失した為室町以前は記録無し

大石大神

細語橋の由来
神池に架せられていたが膝行の人が此の橋の上で足が立ったと云う伝説があることから神池の入口に立て、万病平癒を願い祭られています。
元禄時代
ご朱印   
鎮座地区 糸島市
郵便番号 819-1106
所在地  糸島市志登82
地図座標 33.574209,130.222264
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 志登神社 [A00-0579]
【所在地】 糸島郡前原町大字志登字宮廻
【祭神】 豊玉姫命、和多津見神、彦火火出見神、息長帯姫命、武内宿神
【由緒】 延喜式神名帳に怡土郡志登神社一座と在れとも今は志摩郡に属す、昔は大社也元亀天正年九州兵乱の時迄は猶十二町の神田有りしが天正十二年太閤九州征伐の時神領悉く没収せられたり。元禄の頃の国主光之より神田一町六反寄附又新に神殿造立す。先きの神殿は天正九年十一月に原田隆種再建也。
華表一基其銘に曰く。宝永四歳次丁亥夏五月二日建立従四位下侍従本州牧松平肥前守綱政。明治五年十一月三日郷社に被定大正五年十月十二日県社に被定。
【例祭日】 十月七日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿、社務所、参籠殿
【境内坪数】 七百坪
【氏子区域及戸数】 四十二戸
【境内神社】 大神宮、厳島社(市杵嶋姫命)、八坂神社(須佐男命)、天満宮(菅原道真公)、志々岐神社(十城別命、倉稲魂命)
糸島郡誌
【社名】 志登神社 [N01-0111]
【所在地】 糸島郡波多江村
【由緒】 幣帛料供進指定社。大字志登字宮廻にあり。(古名浮島)祭神豊玉姫命和多津見命息長帯姫命彦火々出見尊竹内宿禰命。延喜式には筑前国怡土郡志登神社一座とあり。(古は此の村怡土郡に属せり)古は志摩郡の総社にして郡中の貴賤皆産神と仰ぎ祭れり。祭日には神輿潤村合の森と云う所まで渡御あり、宮司七人巫女八人神人二十四人楽人八人此外祠官多く供奉して其の儀荘重なりしといふ。神田も多かりき。古文書に曰く可令早託摩別当次郎時秀法師(法名)領地筑前国志登神社地頭職(豊前前司景資跡事)右依弘安四年蒙古合戦之忠、所被宛行也。然者早守先例、所令領掌之状、依仰下知如件。弘安九年十月二十八日相模守平朝臣判陸奥守平朝臣判。又曰く筑前国志摩郡志登神社地頭職事、早莅被所下地於沙汰付、託摩別当可執進請取之状如件。応永九年七月二十九日、貞頼判。榊掃部入道殿。新原又三郎殿。又一書に、託間別当五郎本領志登地頭職之事などあり。延慶四年の文書に、志土社神官寺別当職免田など見ゆ。共に同地中村家に蔵す。元亀天正の頃までは猶十二町あり。弘安四年辛巳の蒙古合戦の功により同九年丙戊鎌倉より肥前国託摩別当次郎時秀と云人を此の社の地頭職とせしことあり。(前記の古文書参照)古代神領の多かりしを推すべきなり。花山天皇の御代に岩隈式部大蔵種美といふ人あり。当社の神託によりて始めて大宮司と称す。其の子を越中といふ大宮司の家を嗣ぎて、次男?永といふ僧始めて宮司坊となる。此の外神官巫女等数多ありしが豊臣秀吉九国征伐の時神領悉く没収せられしかば神官社僧も皆農夫となれり。此の時の神職岩隈与左右衛門其の所有田畑の内一町を兄の宮司坊祐尊に与へて宮司職を継がしめ、其の身は遂に農夫となれり。神田は原田隆種天正九年辛巳十一月に再建せしを元禄三年庚子国主黒田光之神殿を初め末社に至るまで改築し、太郎丸の内にて神田壱町六段寄附あり。明治五年十一月郷社となり、大正四年十一月十日県社に列せらる。大正五年十二月十二日幣帛供進社に指定せらる。もと九月七日を例祭とせしが大正六年四月例祭を十月七日に変更せり。昔此社地は浮島なりしといふ。
豊玉姫は海神の女にして現官幣小社竈門神社祭神玉依姫命にあらせられ地神四代彦火々出見命の后妃にて五代??草葺不合命の御母君なり。初め彦火々出見命兄火照命の釣針を借りて釣魚をなさんとして海中に之を失ひ釣針を索むるため塩土老翁の先導に依りて龍宮に至り、豊玉姫との婚式を挙げ遂に同宮に止まること三年失ひし釣針を得て帰りたまふ。其後豊玉姫命姙娠の身を以て彦火々出見命の跡を慕ひて此地に来り給ひし霊地なれば豊玉姫命を奉祀せしものなりと云ふ。尚ほ尊の立たせ給ひて髪を梳りしと云ふ大岩を岩鏡と云ふ。其他鐘掛の松物語橋等社地の附近にあり。又彦火々出見命は同郡高祖神社の祭神にして、東導の神なる塩土翁は同郡芥屋村に塩土神社として奉祀せりと。
境内神社三、殿島神社(祭神市杵島姫神)、三社神社(祭神皇大神、八坂神、天満神)、志々岐神社(祭神十域別神、倉稲魂神)。
コメント 2014年07月15日に全焼したが、2015年12月に立派な社殿が再建された。
公開日  2015/06/14
更新日  2016/05/01
神社全景[2015/04/25撮影]
神社全景[2015/04/25撮影]
神社入口風景[2015/04/25撮影]
社号標[2015/04/25撮影]
神社案内板[2015/04/25撮影]
一の鳥居[2015/04/25撮影]
一の鳥居扁額[2015/04/25撮影]
旧由緒碑[2015/04/25撮影]
大石大神[2015/04/25撮影]
大石大神由緒碑[2015/04/25撮影]
手水舎[2015/04/25撮影]
力神石[2015/04/25撮影]
ご神木[2015/04/25撮影]
社殿跡正面[2015/04/25撮影]
社殿跡全景[2015/04/25撮影]
境内神社、天満宮[2015/04/25撮影]
境内神社、鷹神社[2015/04/25撮影]
参道風景
注連掛石
由緒碑風景
由緒碑
由緒碑
碑文
境内入口正面
神池
注連掛石
二の鳥居
二の鳥居扁額
社殿正面
社殿正面
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
お潮井台
拝殿神額
拝殿内
社殿全景
社殿全景
本殿
本殿
本殿
社殿背景
社殿背景
鬼瓦
境内神社、志々岐神社・皇大神宮・八坂神社
境内神社、天満宮
境内神社、鷹神社
鷹神社狛犬(阿形)
鷹神社狛犬(吽形)
鷹神社全景
鷹神社祠
   
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