[0863] 六所神社(ろくしょじんじゃ)
神社№  0863
神社名  六所神社(ろくしょじんじゃ)
神社別名  
参拝日  2015/06/09
再訪日   
社格   県社
その他社格 
ご祭神  伊弉冊尊、速玉男命、事解男命、中筒男命、表筒男命、底筒男命
由緒等  
六所神社の大樟

福岡県指定天然記念物

六所神社の社前(1号木)とその横(2号木)にある樟木は、県内屈指の大きさを誇る巨木として貴重である。
六所神社の創建は神功皇后伝説に由来があり、社殿造営は、中世初期頃まで遡れる。神社には享禄四年(1531年)の大友義鑑による社殿改築の棟札が伝わっており、その頃に一旦大幅な社殿の改修があったとみられる。天正年間に兵火に遭い、その後、荒廃していたが、寛永八年(1631年)福岡藩黒田忠之公によって再興され、近世志摩郡の総社となった。
このような幾度の社殿の荒廃の歴史に耐え、境内の大樟は樹勢旺盛でよく繁茂しており、樹齢はおよそ八百年を越えるものと推測される。1号木が、胸高幹周8.5m、根廻り24m、樹高28m、2号木は胸高幹周7.5m、根廻り24m、樹高29mを測る。現在、胸高幹周に比して根廻りが大きいのは、後世の社殿の再興造営に際し、地面を切り下げたため根元が露出したものと考えられる。

平成22年1月

糸島市教育委員会

県指定天然記念物
六所神社の樟 二本

糸島郡志摩町大字馬場
昭和三十五年四月十二日指定

旧志摩郡の総鎮守社として著名な六所神社は数度の兵火にあいながら境内のクスノキは、それに耐えて今日におよび、なお樹勢は旺盛でよく繁茂している。
このクスノキの規模は次のとおりである。

一号木(熊野神木) 胸高周囲八、五米 根回り二四、〇米 樹高二八、〇米
二号木(住吉神木) 胸高周囲七、五米 根回り二四、〇米 樹高二九、〇米

胸高周囲に比較し根回りが大きいのは、神殿造営に際し地面を切り下げたため根元が露出したものと言われている。

昭和五十二年一月十日
志摩町教育委員会
ご朱印   
鎮座地区 糸島市
郵便番号 819-1305
所在地  糸島市志摩馬場344付近
地図座標 33.587645,130.204693
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 六所神社 [A00-0578]
【所在地】 糸島郡可也村大字馬場字長谷
【祭神】 伊弉冊尊、速玉男命、事解男命、中筒男命、表筒男命、底筒男命
【由緒】 古老の口碑には神功皇后異国退治帰朝の船当郡小金丸村右の浜と云ふ所に着其時鎮座すと云伝ふ、皇后鎧の草摺石となりしとて右の浜に鎧石有り毎年九月二十七日右の浜に仮宮を立て神輿を奉休、然して馬場本宮に着給ふ尊神西境の鎮守なる故に世々此国郡を領する国主領主社領を寄附し殿社を経営す、往古は大社にして神田当郡於波多江村五十町寄附中世屢々兵乱に祭田不貢宮頽壌す、寛永辛未年国主黒田忠之再建筑前早鑑神社記筑前神社由来記等にも見ゆ、明治五年十一月三日郷社に定められ、昭和八年三月十日県社に列せらる。
尚社説に述ぶる所次の如し。当社は熊野三神住吉三神を祭り、御鎮座の年代は古くして文書に徴すべきもの無けれども、中世の文書伝説等に依れば神功皇后異国退治の時、尊神御船を守護し給ひ刄に衂らずして異賊降参す。皇后御帰朝の時御船を当村小金丸右の浜(幣の浜)に着御御上陸、本神を御祭祀の上国の守護神として奉鎮座と云ひ伝ふ。皇后の御鎧の草摺石となりしと云ふ、摺石右の浜にあり昔は毎年九月二十七日右の浜に仮宮を建て御神幸をなし奉り、御還御の際小金丸に熊野権現異国より渡り給ふ時御腰を掛け休み給ひたると言ひ伝ふる横三尺縦四尺位ありて底深く地中に入りたると云ふ、此の石に御神輿を奉休し御神意を慰め奉りしと云ふ、其の石を輿掛石と云ふ。其の附近に桟敷と云ふ地名も残れリ、然して後ち馬場本宮に着せ給ひて、祭儀殷盛を極めたりと云ふ。
尊神西境の鎮守なる故に世々此の国郡を領する国主領主社領を寄附し社殿を経営す。往古は大社にして本社殿は享禄四年十二月十一日豊後国大友修理大夫源朝臣義鑑公改築し、廃したる神幸を再興し祭典等も厳重に行はれ、大宮司官巫女等多数ありて殷盛を極めたりしに天正の頃屢々兵乱に遭遇し、当郡波多江村に五十町粕屋郡仲原村の内七町歩、当郡小富士村辺田に一町五反歩の社領を有せしも悉く没収せられ、遂に祭田不貢社殿頽壌せしを、寛永八辛未年国主黒田忠之再興社殿を改築し三十六歌仙簾銘刀等を寄進し、爾来代々国主より修繕せられ、箱崎宮を一の宮とし本宮を筑前二の宮として郡奉行大庄屋等に令して社殿相継ぎて修理を加へられ、中古志摩郡の総社と崇め祭典厳重に奉仕せらる。殊に雨を乞ひ霽れを祈られるる時は、必ず家臣を代参せしむるを常とし、元岡村大庄屋は觸下二十ヶ村御庄村大庄屋は觸下に十八ヶ村に令して参列せしむるを常とし来れり。明治五年十一月三日郷社に列格し昭和三年九月三日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、昭和八年三月十日県社に昇格せり。享禄四年以後の六所神社棟札左の如し、
享禄四辛卯歳十二月十一日
奉造立馬場六社大明神御本社大一宇大檀那豊後国大友修理太夫源朝臣義鑑公御武運長久延命息災所
寛永八年辛未十二月十三日
欽奉造改馬場六所大明神御宝殿同拝殿二宇国主右衛門佐侍従源朝臣忠之公命工御当作也御武運長久御子孫繁栄攸。
慶安三庚寅歳三月十三日。元禄十六癸未歳十二月十九日。享保二丁酉歳八月十六日。元文元丙辰年九月二十六日。延享五戊辰年六月五日。宝暦七丁丑五月吉日。寛政十三辛酉年二月等、外に四枚の棟札を有す。
【例祭日】 九月二十八日
【神饌幣帛料供進指定】 昭和三年九月三日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿、神饌所、社務所、手水舎
【主なる宝物】 御神鏡、莱桐御紋章入水引幕、縁記一巻、棟札十五枚、三十六歌仙絵馬、翁面一対、大刀三口、絵馬五枚
【境内坪数】 一千九百九十七坪
【氏子区域及戸数】 大字馬場区 戸数三十九戸
【境内神社】 現人神社、蒼稲倉魂大神(保食神)
【末社】 厳島神社(市杵島姫命)
糸島郡誌
【社名】 六所神社 [N01-0048]
【所在地】 糸島郡可也村
【由緒】 大字馬場字長谷にあり。祭神は熊野三神(伊弉冊尊、速玉男命、泉津事解男命)住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)なり。祭日は二月二十七日より二十八日まで、七月二十七日より二十八日まで、十一月二十七日より二十八日までとす。社地樹林繁茂し人煙幽邃なり。社の西南竹林の中に神池あり。昔は本社を距ること西二里許りなる小金丸右の浜(幣浜か)に頓宮ありて行幸し神輿本宮に還れば伶人巧に俳優を作して神を楽しましめきと云ふ。馬場の田字に棧敷と云ふ所あり。又猿楽堂の跡あり。社家に粕屋郡中原邑の田税を以て祀?を給する等の古牒ありと。後奈良天皇の享禄四年大友修理大夫源義鑑本社を造営せり。棟札に泰造立仕馬場六社大明神御本社一宇、大檀那豊後国大友修理大夫源朝臣義鑑公、御武運長久延命息災所十二月十一日、奉行臼杵安藝守藤原朝臣親連、神主行弘大和中原朝臣正道とあり。(親連は草場山の城主なり)。其後社殿頽破せしを慶安三年寅春藩主黒田忠之執吏に命して神宮を造らしめ旧貫に復す。貞享三年丙寅の秋黒田光之、元禄十六年癸未黒田綱政相次いで修理を加ふ。此頃本社帯る所の邑五あり、曰く馬場、松隈、由美、新田、津和崎是なり。元禄年間居民寄附する所の祭田凡一町六段五畝歩(二段馬場、九段松隈、一段井田原、二段前原、一段由美、一段新田、五畝津和崎)ありき。筑前神社記に『当郡の宗廟にて昔は大社なり波多江村にて五十町の神領あり』とあり。明治四十三年一月友池直助田一町五歩を寄附せり。大正四年一月馬場区氏子三千余円を醵金して神殿渡殿を改築せり。享保十九年甲寅三月稲留希賢の撰に係る縁記あり。又由比家文書に拠ればもと由比社と称し、天文年中由比和泉守盛正の三男連正由比の社務職を統へしこと見ゆ。
境内神社二、現人神社、巖島神社
コメント  
公開日  2015/06/21
更新日  2015/06/21
神社入口正面
注連掛石
手洗鉢
社号標
旧社号標
鳥居
鳥居扁額
境内風景
境内神社(不詳)
ご神木
六所神社の大樟
六所神社の樟
ご神木
社殿正面
社殿正面
社殿正面
狛犬(阿形)
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
狛犬(吽形)
手水舎
お潮井台
拝殿神額
拝殿内
拝殿内
拝殿内
奉納絵馬
社殿全景
社殿全景
本殿
本殿
境内神社、現人神社
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