[0866] 櫻井神社(さくらいじんじゃ)
正面写真・地図
神社情報
神社№ | 0866 |
神社名 | 櫻井神社(さくらいじんじゃ) |
神社別名 | |
参拝日 | 2015/05/17 |
再訪日 | |
社格 | 県社 |
その他社格 | |
ご祭神 | 神直日神、大直日神、八十枉津日神 |
由緒等 |
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ご朱印 | |
鎮座地区 | 糸島市 |
郵便番号 | 819-1304 |
所在地 | 糸島市志摩桜井4227 |
地図座標 | 33.628331,130.192025 |
公式HP | https://sakuraijinja.com/ |
福岡県神社誌 |
【社名】 櫻井神社 [A00-0577]
【所在地】 糸島郡櫻井村大字櫻井字相
【祭神】 八十枉津日神、神直日神、大直日神、天神地祇、八百万神、大国主神、少彦名神、事代主神、伊邪那美神、事解之男命、速玉之男命、埴安神、浦永次命、熊野三神、住吉三神、誉田別天皇、息長足姫尊、武内宿禰命、鵜草葺不合命、高龗神、闇龗神、菅原神
【由緒】 旧藩主黒田忠之寛永九年社殿建築正徳五年四月七日与止姫大明神正一位勅許明治二年櫻井神社を櫻井村氏神に許可従前は西宮神社、久保神社、谷熊野神社、八幡宮、末松神社、木浦神社、熊野神社、天満宮、八社ありしを明治十四年二月櫻井神社相殿に許可社領米二百石於櫻井村承応二年五月二日黒田忠之寄附山林坪数二万七千三百八十五坪櫻井村寛文四年八月二十二日黒田忠之附田畑二町五段九畝二十八歩社地徳引除地八月十八日祭礼供米として一石八升永々寄附日供料手伝として櫻井村米の内より米二石五斗九升二合明暦年中より寄附寛永九年六月黒田忠之神馬奉納飼料として大豆九俵二斗六升六合寄附す、明暦元年二月櫻井村郡役高の内より十五人並二百石社領分の百姓役夫として郡役赦免寛文六年十一月櫻井村郡役高の内五百石分百姓神馬飼夫として郡役赦免相殿に天神地祇を奉斎するは黒田忠之重き依神願京都吉田神楽岡より社内に分霊す、社殿及大破明治十年三月櫻井神社相殿に鎮座す、明治十四年一月二十七日村社に被定、大正十二年七月三十一日県社に昇格。
尚社説に曰く、本社は糸島郡櫻井村にあり前原駅及今宿駅を距る事約二里半社域老杉古松蓊鬱として幽邃閑雅森厳の気自然に迫り来り、遠近の賽者をして自ら襟を正さしむ。神苑に櫻樹多く陽春開花の候杖を曳く者甚だ多し。 本社に奉祀する主神は、神直日神、大直日神、八十枉津日神の三柱なり。 社殿の後なる神窟に奉祀せる神は大綿積神なり、岩戸宮と崇称す。櫻井神社御縁記に依れば、後陽成天皇の御宇慶長十五年六月二日神窟の口始めて開け神の出現あり神威いやちこに霊験あらたなれば庶民の敬仰愈厚く国主黒田忠之に崇仰せられ神窟の前なる山を引き均して神殿拝殿楼門廻廊石鳥居神池御苑石燈籠等に至る迄全部造営せられ、金欄蜀江錦各一巻宝玉其他種々の宝物神馬等に至る迄奉納ありて実に宏大壮厳を極めたり歴代の国主亦尊崇深厚にして社殿の修繕は勿論神器神具祭祀料等一切寄進あり。年中大祭には国主自ら参拝又は重臣の代神あり、能楽及大神楽流鏑馬等の奉納あり、是を以て臣下は言ふも更なり、筑前国中の大庄屋を始め庶民悉く崇敬奉納せり。加之肥前藩よりの奉賽者非常に多く現今も佐賀県方面よりの参詣尚多し。今を距る事三百十有余年、後水尾天皇の御宇寛永六年工を起し同九年に竣工せしものにして是即現在櫻井神社の建物なり。神位正一位社号を与土姫大明神と崇称せしも明治二年櫻井神社と改称せり。 【特殊祭事】 古来の大祭は現在にありては自然氏子の私祭となり、特に西宮祭は旧正月九日夕より十日迄福引により、米俵金幣神像福笹其他の称々品物を授与す。又同十日の夜は金刀比羅宮祭を執行す、崇敬者より参拝の老幼男女に多量の御供へ餅を撒き与ふ。続きて餅押と称へ青年等裸体となりて一群団をなせる中に大鏡餅を投ず是を競ひ取らんとする様壮観を呈す。
七月十二日岩戸宮祭は当日年一回神窟を開放し、参詣人に自由に入窟拝神せしむ。十月十八日私大祭には相撲及流鏑馬の神事を行ふ。 【例祭日】 九月十八日
【神饌幣帛料供進指定】 昭和十二年九月十三日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿、楼門、廻廊、大石鳥居、石反橋、からかね十一対、石玉垣、石燈籠六対
【主なる宝物】 金欄一巻、三十六歌仙、水晶玉、金と赤銅のかざり、槍一、蜀江錦一巻、金蒔絵刀一、同長刀一
【境内坪数】 五千七百二十一坪
【氏子区域及戸数】 櫻井村一円 三百戸
【境内神社】 岩戸神社(大綿積神)、櫻井神社(神直日神、大直日神、八十枉津日神)
【摂社】 大神宮(天照皇大神宮、豊受大神宮)
【末社】 八幡宮(誉田別天皇、息長足姫命、武内宿禰命)、金比羅神社(崇徳天皇)、須賀神社(須佐之男命、櫛稲田姫命、鎮魂八柱神)、春日神社(健御雷之男神、天児屋根命、斎主命、比売神)
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糸島郡誌 |
【社名】 櫻井神社 [N01-0011]
【所在地】 糸島郡櫻井村
【由緒】 幣帛料供進指定社。櫻井村相薗にあり。櫻井神社は従前より各字に散在奉祀せし産神八社を明治六年與止姫神社内に合祀し、現今の社号に改めたるものなり。大正十二年七月三十日県社、幣帛料供進社に指定せらる。例祭日九月十八日、祈年祭二月下旬、新嘗祭十一月下旬の三回なり。
與止姫神社は字相薗にあり。祭神は大海津見神神直日神大直日神八十枉津日神の四柱の神なり。此社創立の由緒は慶長十五年六月一日の暁より翌二日暁に至るまで相薗三郎畠(今の社殿の後の丘上)の上を中心として方十町許の間風雨激しく雷雨頻りなりしが此時岩窟の口初めて開けり。(奥行一間二尺横巾五尺高さ二間半大石を以て之を囲む入口一間余古塚の形をなせり)窟内清潔にして四壁の巨石人工の及ぶべくも見えざれば人々不思議の感をなし唯敬虔の念を起したり。里人浦新左衛門毎治と云ふもの(字浦にあり浦刑部次永の子孫にして代々岩松城屋敷に住める大宮司の祖先なり)あり、其妻幼時より孝心深く最も慈悲心に富み特に敬神念堅かりしが、此岩戸に参詣するや忽神かからせ賜ひ常人の企及す可らざる不思議の言行多し。されば遠近より参詣するもの甚だ多く禍福吉凶を尋ぬるに其預言百発百中にして千里を透視せるが如くなりしかば時人乗蔵神女と呼びて敬へり(詳細は與止姫神社及浦姫宮の縁起に尽せり)。同年十一月二十一日信託により五ヶ年間穀食を断ち唯茶と酒を飲み、家内の穢食を禁じられし事ありし等、霊験益著しく遠近に聞えければ、国主忠之公近臣を下賤に装はしめ再度之を探らしめられしに使臣の未だ着せざるに神女は既に之を知り、使臣の未だ言を発せざるに其の胸中を指摘し其の信念なきを戒む。使臣信を起して公私の事を問はるるに其信託奇特の事多かりしかば、忠之公是より深く信仰せられ度々自ら神女を訪はれ、遂に岩戸の前の荒地を拓き神殿を建立せしめらる。寛永六年より着斧し同九年に至り造営概ね成就せり。本殿、拝殿、八角社、天照大神宮(着斧少しく早かりしが如し)石の鳥居及諸仏殿を数を尽し、鐘楼護摩堂(浦姫宮の縁起による)に至る迄完備せり。京都吉田家より兵部少輔忠治を招請して社号を與止姫大明神と崇敬せらる。其の外摂社には八幡大神春日大明神祇園社神祇官八神殿あり。其他石橋、石燈籠、惣門、中門、廻廊、神厨(明治初年までありしが今はなし)神庫、能舞台(現今は礎のみ残れり)等悉く備はるに至る(現今は廻廊附の惣門一ヶ所のみなり。寛文年中仏閣を毀ちたる時崇福寺に移せりと口碑に伝へり。崇福寺僧の口碑にも残れり。改築前の一門なりしと)。加ふるに神領として年々二百石を給し、又光之公より社地四辺二萬七千三百八十五坪を寄附せらる。又忠之公御家の重宝より奉納せられしもの数多あり、玉冠(黄金製)金幣銀幣(維新の際藩命により還納せり)宝剣刀長刀槍等十余振、長政公の晋州より分捕品の蜀紅錦一巻(三丈三尺)金襴一巻(四丈四尺)其他宝石三四種(砂石水晶中玉の玉等)馬角加羅木萬年草楽器類あり。書画には近衛三藐院殿の書狩野古法眼の画ける三十六歌仙及鶴千羽雀等あり。尚忠之公御自筆の夢想の一軸(家老栗山大膳上訴の時忠之公深く国難を憂ひて神告のままを認められしものと伝ふ)、外に宝永七年に成る縁記二冊あり。忠之公は又当社の神職として神女の孫浦権頭大輔毎成を京都に上せ吉田家の唯一神道を学ばせ、社家九人(佐々、平川、江川、川本、甫守、牟田各両家と上野)の長たらしめ、且国中神官五百人の総司たらしめ、浦家の子孫をして代々之を相続せしめらる。国主代々の信仰厚く大祭には必ず代参あり、流鏑馬猿楽等の興行ありて肥筑の参詣者多く祭礼甚盛なりき。大口浜に忠之公木の鳥居を建てられしを宝暦二年綱政公改築して石に改め、後又斎溥公改築せらる。元禄の改築及大神宮の二十一年毎の改築等皆藩費に依れり。寛文十二年社職毎春国主に請うて唯一神道を厳守し、仏閣を毀ち社僧を退けたり。当時の仏体の残片数個神庫にあり。又大凉院殿(長政公の夫人)及神女位牌専光寺にあり。正徳六年継高公の時吉田家の執奏により神位正一位に叙せらる。又明和三年朝廷より〼燈一双を下賜せらる。大神官與止姫宮及浦姫宮に同筆の縦額あり、吉田家よりの執奏に成れる或高貴の方の書なりと伝ふ。 以下合祀の産神八社 (一)久保神社。字上野にありき(現今の小学校長住宅の所なり)。上野門川円光寺行友小薗浦小菖蒲立屋敷の八ヶ所の産神なり、埴安命、相殿に浦刑部次永の霊を合祀せり。祭日は九月二十六七両日、古は社僧の坊五家ありしと。今に祭田を以て祭事を行へる五家あり、多く浦姓なり。 (二)西宮神社。当社は海老崎山の東麓川の淵にありき。鬼塚相薗立花木永田田光多五ヶ所の産神なり。天照大神素盞嗚命大国主命少彦名命蛭児命を合祀し、正月十日九月二十四日を祭日とす。文明年間の勧請と云ひ伝ふ。祭田多く、古来より祭事を継続せる家十二戸ありと。 (三)熊野神社。当社は西宮の西隣の丘上にありき。立花木野引田光田の内数戸の産神なり。祭神なり。祭神は熊野三神にして祭日は九月二十三日。社後に石祀ありきと、祭田あり。古来より祭事を継続せる家数戸あり。 (四)熊野神社。字谷にありき。祭神を熊野三神とす。又谷権現とも云ふ。祭日は九月十八日なり。谷石穴洞口坪柚木夕津の産神なり。古は大社にして社人多く社僧も六坊ありしと云ふ。社領多く祭典盛なりしと伝ふ、祭田あり。今尚洞中村姓其長となりて祭事を継続せる家数戸あり。 (五)木の浦神社。字赤隈の東北の山腹にありしと。祭神は鸕鶿草葺不合尊又住吉三神高麗神闇龗神を合祀せるにより里人八大竜王と称す。赤隈の産神なり。祭日は三月十日より十二日まで、及九月十日より十二日までなり。始め山上にありしを移せり、祭田あり。祭祀を継続せる家数戸あり。 (六)八幡宮。当社は伊牟田の西方天寧寺にありしものにして、祭神は応神天皇神功皇后武内宿禰なり、十月九十日を祭日とす。摂社楠木神社あり、伊牟田天寧寺の産神なり。祭祀を継続せる家六戸あり。 (七)末松神社。字末松にありしものなり。昔は末松権現又は押方天神と称し末松押方の産神なり。祭神は熊野三社なり。祭日は正月八日九月十八日の両度にして、末社に厳島木下神社(共に可也村吉田にあり)あり。 (八)菅原神社字藤波にありて藤波野引の産神なりき。祭神は菅公にして祭日は九月二十五日なり。 以上八社の外に四社あり。今摂社として門外に合祀せり。 一、末竹天神社。末竹にありて瓊々杵尊を祭神としたりと。 二、六郎権現。末竹の東二町の圃中の森中にありしと云ふ。今に行司田能床馬場などの田字残れり。祭日は九月十八日にして流鏑馬猿楽等盛なる祭礼ありしと。或は谷権現の頓宮なる可しとも云ふ。谷に櫻井姓あるは此所より移れるものなり。 三、森天神。字浦の西北の畠中の森に石祠あり、国狭槌尊国家女命を祀りしと。 四、天台藪佐。浦の東北方の山麓にあり、又熊野権現とも云ふ。石祠あり。二社共に五坊の一の東坊の家より之を祭り来れり。 [筑前国志摩郡與止姫神祠縁記上] 千早振る神の御代よりははるけき年月を重ねて時移ることさりぬれども、かけまくもかしこき天津日嗣の絶せぬ御光天地と共に限りなければ、神明の霊威も日々に新に月に盛にして古今の隔やはあるべき。されば我秋津州の国々処々に宮所を占めて世を守り人を恵み給ふ大小の神祇多くは上世の陳述なりと雖も、猶近き世に至りても深妙不測の故ありてあらたに霊区を開き徳輝をがぶやかして鎮座し玉ふ事いよいよ神霊の古今にかはらざる験なるべし。爰に当社與止姫大明神社の宮所を創め玉ふ由来を尋ぬるに、後水尾帝の御宇慶長十五年庚戌の歳六月一日亥の日先今の社後にある所の岩戸の口始めて開けぬ。其前朔日の朝より此岩戸のほとり十町許の間西風夥しく電雷頻りにて終日止まず、翌二日の暁に至りてやうやく天晴れ風おさまり電雷静まりぬ。かくて旭日うるはしくさし渡る程に邑人集り昨日の電雷はまさしく藍園の上の野の辺と覚したりとて怪み行きて見れば野中に人の入る許りなる穴うげたり。竹を挿入れて探り試むるにさのみ深くとも思へず直に明きたる穴なりければ、人々其処を掘り穿ちて見るに、横に岩穴ありて南に向ひ口に大石を以て扉とせり。これを開き見れば岩屋の口の上の壌土墜ちて窟の内鮮にあらはれたり。人々怪み恐れて入る事を得ず。此里に越後といふ山伏あり剛の者なりしかば、彼に続松をとぼさせ先にたてて其後に従ひ岩屋の内に入りて見るに、三面の巌清浄にして荒磯の波風にさらせるが如し。左右上下平にして内に他物なし。是に入るもの其心自ら潔くなりて世塵の汚を脱するが如し。是を伝へ聞ける近辺の者悉く此の所に集ひ来りて是を見る。此の時老女一人忽ち気色かはりて神ありありと頻りに呼ばる。其後は岩屋の口に七五三を張り置きて漫りに其内に入る事を許さず。其後此事かくれなくなりしかば岩屋を拝せんとて遠近より歩を運ぶ者日夜止まさりけり。 此時此邑人浦新左衛門毎治の妻に神かからせ給ひ奇異異妙をあらはせり。御神の乗り移らせ玉ふ故に此婦人を乗蔵と称す。毎治の遠祖河津又七郎は大織冠十九世の孫にて其子を浦刑部太輔次永と云ふ。後鳥羽院の御宇に当所岩松の城主たり。世遠く年ふりて家衰へぬれども其遠孫刑部毎忠に至るまで猶岩松城に居住す。毎治は刑部毎忠の猶子なり。乗蔵は元早良郡原の邑の人なりしを、毎忠夫婦是を迎へて毎治に妻せ岩松の上なる寺司屋敷と云ふを譲りて住ませける。始は家貧しかりしが漸々に富み栄えぬ。乗蔵天姓正直にして慈愛深く幼より二親に孝養すること甚篤し。既に嫁しては舅姑に事へ良人に奉じて敬順を尽し家人を恵むこと至らざる所なし。凡此邑の内に於て貧困の者あれば米銭を与へ、或は疾病に罹りて寄る方なきものを自ら労を憚らずしてたすけいたはり、又凶年饑歳には粥を多く煮て乞人に与へければ此里には餓死するものなかりき。乗蔵年十六の頃より其母病ありて三年癒へず。其間日夜保護して暫時も他人にゆだねず、穢れたる衣服をば門前の流るる川にて自らすすぎ洗ひしかば他人ば是を知らず。母終りに臨みて乗蔵に向ひ曰く、年月力を竭し難苦を厭はずして我に事へし志まことに謝しても余あり。御身生涯の内に人に拝まれぬべき応報あるべしと云ひて遂に身まかりぬ。又乗蔵幼きより祭祀に奉することを好み、神の教へを仰ぎ尊み、左を左をし右を右として少しも邪なることなかりしが、かかる陰徳を積みて正直清浄の心神明に通じけるにや、かく御神のかかり玉ふ身となりける。彼の岩戸開けし後数日ありて乗蔵つとに起きて曰く、去りし夜神の御告ありいざ岩戸に詣でんとて、未だ明けざるに出で磯辺に下り、しほゆを取り持たせ彼の岩戸に上らんとするに、白雪四方に満ち萬木千草暟々として銀一色となれりと見ゆ。既に岩戸の内に入れば奥の方よりあららかなる砂一つ眉間にあたると覚えしが、忽ち変り髣髴として左右の石壁に諸神のましますを見奉りぬ。詣で来る人々に向ひて汝等見奉らずや、爰に立たせ玉ふは其御神、かしこなるはそれぞれの御神なるを恐れもなく入ぬるやをと戒めけれは人々驚き退き出けり。其後家に帰りてあな身汚らはし急ぎ汐ゆ取り参らすべき由荒けなく言はれしかば、人々急ぎいたりて汐ゆ参らせるを、其内のあらき砂を取りあけ精けの白米をかむ如くにはらはらと噛みしばかば、口のわきより血流れしをしほゆの水にて口すすぎ、暫くあつて岩戸の開けし事の元を語り出し諸神の御託宣あらたなりければ聞く人身の毛もよだちける。此時乗蔵四十二。是神託の始めにして是より後暫く神宣の霊威多かりけり。又人事の吉凶禍福をかねて告げ示して其験後に違ふことなかりしかば、各身上の吉凶を問ひ試んとて日夜遠近より来る者限りなく集ひける。 岩戸の開けし翌日黄昏の後、岩屋の内より大なる光り物出てて暫く其上に徘徊し、其後乾の方の海上に飛び去りぬ。翌夜又其次の夜も此の如くなりしか、其明日乗蔵に神託ありし後は彼の光り物見えざりける。今年秋八月十二日夜更け月明なるに童男童女忽然として乗蔵の枕頭に現し来り、海の宮を見る可きやと宣ふ。乗蔵覚す荒磯に出だたり。童女は手鉾を左右の手に携へて先ち、童男は榊にしでを附て右の手に持ち篠の葉に紅の絹をつけて左の手に持ち玉へり。共に海中に入り玉ふと見ければ潮水左右に分れ、乗蔵其後に従ひ行きて程なく宮の中に至りぬ。瓊殿玉宇甚荘厳にして諸の神達数知れず並居させ玉ふ其装言葉にも述べ難し。かくて乗蔵に宴を賜ふ。暫く有つて乗蔵辞し帰る。又二童子導き玉ふ。童子の曰く、此度開けし岩戸はわだの宮の通路なり。やがて彼の所に国主より御社建立有るべし、其時汝が子孫神職たるべしと語り玉ふ。其後童男の歌あり「龍宮の都を見する有様を人に語るなつつしめよ」。童女の歌に「つつしみて萬を祷れ叶ふべし龍の都の有らん限りは」此の二首を授け、其後童男手に持ちたる紅の絹を示し、絹を岩戸の懸け置くべし、疑ふことなかれと約して二童帰り玉へば夜はほのほのと明け渡れり。乗蔵夢の如くにて家に帰りぬ。急ぎ身を浄め岩戸にて詣てられしに、約の如く岩戸の口に紅の絹懸れり、これを見る人奇異の思をなせり。是より後は海の宮へ通ひしとて乗蔵の形を失ふこと度々あり。彦火々出見尊の御時より海と人との通路絶ゆけるを此人海の神の教によりて海の宮に行き通ひける。まことに奇妙の事なり。翌十三日の夜乗蔵の家内金色の光輝き渡り、乗蔵口より血を吐く事限りなし。其後清水を汲ませ、多く呑みて又吐く事五六度に及て後信託あり、我は海の神なり、国家安穏ならしめんために爰に現す、我を信ずる輩は萬意の如くなるべし、血を吐かせしは臓腑を清浄ならしめんためなりとて、先 天照大神の御託宣あり、其次に春日大明神、次に八幡宮の御託宣、其次に日本国中の神祇各御託宣あり。良久して後又海の神の御託宣あり、聞く人畏れ敬はざるはなし。同年十月二十一日乗蔵に神の告有りて曰く、今より後五ヶ年の間五穀を断ち、唯茶酒を呑み、家内に穢食を忌むべし。又此一邑の中生を殺す事を忌むべしとの教なりしかば、是より後は乗蔵只茶酒を飲みて、其他は五穀を始め一切の食物を断つ事五年に及べり。かくて五年に当る正月十三日又御告ありて食事常にかへりける。乗蔵一間なる所を構へて日々詣来る人に対接す、各其人に随て既往を語り未然をはかり、吉凶禍福を告示す事聊か違ふ事なく、霊験いよいよ年久しくして遠近にかくれなかりしかば、邦君忠之公此事を聞き玉ひ、是を試むる為めに近臣を下部の体に出立せて遣はし玉ふ。乗蔵はかねて此事をさとりて今日国主より御使来るべし、急ぎ饗応の設せよとて待ち居られしが、御使門外に至る頃乗蔵曰く、唯今年の頃何年許りなる人某色の衣服を着て門前に来られん是国主の御使なり此方へ迎へ参らせよとて請し入れける。彼の士是を聞てさる者に侍らず賎しき下部にて私の事を尋ね参らす可きために来りたるよし申しければ、乗蔵打笑ひて国主の仰言はかやうにこそ侍れ、そこの御心はかくこそ侍れ、何ぞ欺き玉ふやと云はれければ、御使陳するに詞なくして問ふべき事とも尋ね聞きて帰りぬ。其後又権臣村山氏を遣はして再び是を試みらる。此人才性頗る聡明にしてみだりに怪異を信ぜざりしかとも命に応じて櫻井に赴きける。長垂山を過ぎ七寺川を渡る時相知れる人に行き逢ひしが、公命にて櫻井に詣り侍る由語りて乗蔵神託の事をいぶかしき事なりとて嘲り通りける。乗蔵又今日国主よりの御使有るべし、其志違へり、然れども御使なれば対面する由云ひて待ち居ける。村山氏やがて来りければ程遠き所御使辛労に候、但し御志違ひて覚え候、七寺川にての御物語もあさましく聞し候、神慮の妙なる凡夫の智にては計り難し、曇れる鏡には形映らず、そこに向つて何をか述べんとて座を背かれける。村山氏神慮の計り難きを畏れ黙然として居たりしに、乗蔵村山か方に向かつて、過りては改むるをよしとす、疑をだに止め玉はず国君の仰事捨つ可きに非ず、問ふ事あらん申給へと云はれける。村山即ち邦君の仰言を始め様々の事共問けるに一として違ふ所なかりしかば、いよいよ信を起して帰り其由を邦君へ申ける。其後は忠之公自ら櫻井に参詣し事を問ひ試み玉ふ、其答皆しるし有りしかば大に感じ玉ふ。是より後は度々参詣あつて吉凶禍福を問ひ玉ふに其験応ぜずと云ふ事なし。其外神怪あげて数へがたし。くだくだしければ此にもらしぬ。 寛永五年の春二月朔日御託宣の後 「百とせのめくりて今日に花の春いく重かすみのたちこめにけり」。 同六年冬十一月三日御託宣の時 「三日月の木の間の月にあらはれてふちをこかけに有明の月」。 「櫻木のこの国まてもあらはれてすえはるはると国を守らん」。 「谷水や峯の松風ねをこめて国ふりまさる筑前守」。 同日の御託宣に、我地神の末より海と人との通路を止めて二千余年を経たり、今故あつて爰に現す、国栄え民安からしむへし、岩戸は海宮の通路なり、正直を心として謀計をたち、清浄にして我に事へば禍を除き安穏ならしめんとなり。 同日の御託宣に、国主三十八歳の時に至りて天下に佳名を掲げ給ふ事あるべしと御告あり、果して忠之公三十八歳の時台命有つて肥前国長崎の藩鎮となり給ふ。是より先東照君戎衣して天下の乱を静め玉ひし時、忠之の先君長政謀をめくらして武を励まして神君を助け玉ふ、其忠勤の功業群を抜たりし故、世治まりて後其賞として此国を賜はりぬ。凡此国は古より九州の総管にで殊に西藩に近き樞要の地なれば、当昔は官府を置て九州の政を司らしめ、夷賊の襲来に備へられし所なるか、かく長政に賜はりしは神君素より長政の将帥の職に堪たる英才なるを知らしめしての事なれば最規模ある事にこそ侍る。然れども夷賊の備を任せらるるよしの命をば其時まだ蒙り給はざりき。長崎は我日の本のいと西裔に在て大船を繋ぐによき港なれば近世は諸藩の海賈皆此港に集れり。夷賊襲来の藩屏として防禦を備ふ可き地なれども、此頃まで未だ鎮め給ふ、真に先祖を顕はし名誉を殊域迄に施し玉ふと謂つ可し。按ずるに云々と撰者定直の後註あるも之を略す。要は人間の正道の誠意は天地の神明に感通同化するとの理を設けるなり。 [筑前国志摩郡櫻井村與土姫神祠縁記下] 忠之公岩戸の前なる山を引ならして神殿を作らせる。寛永六年己己より斧初あり、数年を経て同九年壬申営作成就せり。京都より吉田兵部少輔治忠を招請して神事を行ひ、社号を與世姫大明神とあがめ奉らる。御神は神直日、大直日、八十枉津日の三柱の御神なり。其所岩深く秘する所なれば爰にもらし侍る。此時も信託のあらたなること多く侍りき。接社一宇は八幡大神、一宇は春日大明神、一宇は神祇宮八神殿、一宇は祇園祠、すべて四宇なり。又八角社は吉田斎場所の神祇殿を移し奉りて八百万神を祝ひ納め奉る。又八角社は吉田家にのみありて、他に建立することを得ず。然れども此所には格別の仔細ありて吉田より是を甘心せし故勧請し玉ふ所なり。初は神祇の宮と称し奉る。今の大宮司毎徳の時に至りて吉田より二位兼敬卿より社号をおくられ設教殿と称し奉る。此外の末社は事しけければ是を略す。神厨神厩石鳥居等備れり。又此所に、天照大神宮を建立す可き由神託ありしかば、忠之公是に依て本社の西南光寿山の麓に大神宮を建て給ふ。内外一社に祭り奉る、故に両大神宮と称す。二十年に一度の改造、社地両所にあり。 かくて忠之公より與土姫の御社に神領二百石寄附し玉ふ。又四辺の山林を寄附せらる。東は天ヶ岳西は光寿山北八町を経て大口浜に至り、此間左右の山林皆神地となり、又祝人を多く置て祭祀を行はしめ玉ふ。其事は下に詳なり。又宝剣の形を模し、御神服を始め几帳神幣金銀幣各二流、其外神物神具皆吉田にて製せしめ是を奉納し玉ふ。又真大刀衛府大刀各一口、蒔絵飾大刀二振、錦金襴各一段、其外色々の神宝を奉納せらる。長政公朝鮮晋州の城より分捕し給ひし大なる宝珠をも爰に納め玉ふ。是稀世の珍宝なり。又此の御社に紫色の玉あり、高さ二寸五分、廻り八寸許、形うつたかくして廉あり、是は岩戸の開けし初海の神乗蔵に託して岩屋の内に宝珠あるべし最秘重すべき由の御教なりしかば、岩戸に詣で是を見るに其前芥はかりの物もなかりしに、岩屋の内に忽此玉を見初めて取り納め、今に神宝として貴重する所なり。今年忠之公其謹み玉ふ事ありて此御神に祷り玉ひしに、御神の告として怪しき夢想を見玉ひける。其後先の憂はしき雲霧も霽れて何の恐もなくなりしかば、御神の恵尊く思ひ玉ひ、即彼の夢想の句を自筆に書きて御社にこめ玉ふ。 しるへにや雀の千聲鶴の一聲 乗蔵は寛永十三年十二月二日六十八歳にて身まかりぬ。此時もさまざま怪しき事共多かりける。几乗蔵四十二歳より今年まで二十余年間、神託の奇異勝て数へがたし。其語僅に一二を記録して今猶伝はれり。乗蔵の男女各一人あり、男を善兵衛と云ふ。其の子を宮内少輔治重といふ、祠官となれり。忠之公より京都吉田に遣はして神事を学ばしめらる。然れども不幸にして早く棄世せり。其弟毎成此時若年なりしかば未た神職を務めず。忠之公より家臣山部治右衛門と云ふ士を櫻非に遣はし贅婿として乗蔵の女と妻はせ神官たらしめらる。是も三年にして物故す。毎成既に成長せしかば忠之公より祠官を命じ当社神職の長とし玉ふ。是よりさき祠官両人まで早世せしかば毎成のために是を恐るるもの多かりしかども、毎成明敏にして寿夭は皆天命なることとて少しも心にかけず祠官を務めける。かくて忠之公毎成を京都に遣はされ吉田にて唯一神道を学ばしめ玉ふ。三壇上を伝授す。浦権頭太輔と称し都より下りしかば、国中の社職の惣司として諸社の神職の輩にも志ある者は浦氏に属せしめ給ひて吉田流に帰せり。毎成妹二人あり、第一の妹をば武藤氏に妻はせて乗蔵の住まれし寺司の宅に置かれしが、武藤氏は後に忠之公に事へて武士となる。末の妹は神田氏に嫁して男子あり。武藤氏士人となつて後、神田氏の子に彼の寺司の宅を与へ、武藤氏の息女を娶て妻とせり。其子孫相続で今に寺司の宅に住す。 又臼杵氏の家臣甫守の子は幼きより乗蔵召使はれしか、神道に志ありしが故に社人となして神事を務めしむ。其子二男一女あり。男子は両家に分れ各社人となりて今に相続せり。女子はさきに山部氏に妻はせたる乗蔵の息女に子なかりし故に、其猶子をして河本氏に嫁す。河本氏はもと備前の産にして久しく此の所に来住せり。是も社人となりて其末孫相続で神職を務む。又此社殿創立の時当郡板持村の天満宮の社人の内神事に精しきものを忠之公より召寄せさせ給ふ、其末今の平川氏なり。橋本氏は伊勢の社家にてよく神事に習へりしかば、忠之公より招き寄せ玉ひ、並に当国住吉の社人佐々木氏を召よせて共に大神宮の御社の神事を務めしめらる。橋本氏は其家絶ぬ。佐々木氏相続で社職を務む。此外牟田氏江川氏等浦氏の姻家にて神道に志深かりしかば、社人となして神事を務めしむ。其子孫今に相続せり。上野氏はもと長政公に事へて卑賤の者なりしかども、忠義の志深く功労ありし者なる故に、任を止めしめ社人となして明神の御供を勧めらる。其子孫今に相続せり。此外神人猶多し。日々月々に打集ひ神事を務め時節の祭礼怠る事なし。 八月十八日は恒例の大祭あり。此日流鏑馬散楽等をも行はる。遠近より参集する者夥し。六月二日には岩戸開の祭ありて其儀厳重なり。就中岩戸を開くの法は一子相伝の神秘なり。此日亦参拝の者群衆をなす。此外六月晦日十二月晦日大祓の儀式あり。又深夜より正月十四日まで神前に疫塚といふ物を飾りあらふる神を祭ることあり。猶小祭は之を略す。 末社の祭礼は八月十五日八幡宮、六月十五日祇園社、二月上の申の日春日社、九月十一日同十六日は大神宮の御神事にて、三日前より潔斎し神供を備へ祓をなす。八神殿には極まれる祭日なし。又藍園より三町許異の方上野と云ふ所に神社あり久保宮といふ。是浦氏の遠祖刑部大輔次永の霊を祭れる所なり。九月二十七日を祭日とす。近隣の邑人皆産神として之を祭る。 又忠之公逝去の後宰臣黒田一任浦毎成と相計り此所に於て忠之公を神に祝ひ、吉田家より神号を申受け島岡大明神と崇め参らせ、其後吉田の神官の人を招き下し祭礼を行へり。今に於て毎月十二日を祭日として其礼を行ふことを怠らず。 すべて此宮は忠之公の丹誠を致し心力を尽し給ふによりて、本社を始め許多の殿宇数年間に功ををさめ、辺鄙に稀なる壮麗を極め、神物神具も盛備して乏しからず、社家神人も各其所を得て年時の祭祀豊潔にして怠らず、忠之公草創の忠功最大なりと謂つべし。光之公相続で尊崇し玉ひ、今の国君綱政公に至り益精誠に仰ぎ尊ませ給ひ、自も度々参詣し、又年時に使を参らせ恭敬し奉らる。又元禄十六年十一月御社の造営料として三百苞の米を寄献し玉ふ。かく代々の国主尊仰し玉ふ故に、自ら神威もいやましに輝き添へ、社家も年々に繁栄することと真に宜なる哉。此社の側に当社はいかめしき仏閣多く社僧も住して仏事を執行げるが、此の神僧を忌み玉ふ事は既に乗蔵に託宣ありし事なり。其上京都の吉田よりも唯一神道の社に仏堂ある事いふかしみせらるるよし聞ゆ。祠宮浦権頭太輔毎春才量ありて唯一神道を執持しけるが、宝文十二年に是を国君光之公に申上て悉く仏閣を毀ち僧を退けて専ら神道を修行せり。毎春は毎成の子毎春の子主殿頭毎徳相続で祠宮となり祭祀を司る。毎徳又京都に上り吉田家にて神道を学び秘伝を受けて其奥を極む。毎徳に至り始めて朝廷より五位の叙爵を賜はる。此日吉田二位兼敬卿より大宮司神主両号を許さる。又京都にて雅楽を学び社家の内にも其志あるものを選び是を学ばせ始めて神事に正楽を用ゆ。毎徳最大志あり、故に此時に至りて神事年を追ふて益盛なり。此御社の和琴は本州の良士高畠瀧麿が所作なり。瀧麿は古を尚び雅楽を好む。又天性心匠ありて彫作の精工なりしが、其上京都の庭にて在職中のいとまに自ら我和琴を製す。宝永元年十二月御神楽の時四辻公尚卿闕座せられしによりて、多久音是に代りて本末の座を務め、此時此の和琴を用ひて奏でけるに其音殊に勝れたるよし禁庭にて賞与ありける。其年又御蔭の祭にも久音此の器を用ける。其後瀧麿本州に携へ帰り貝原益軒翁に請ひて其記を書せしめ、自ら家宝として秘蔵せしが、禁庭にも用ひられし器なれば私の家に貯へて褻玩するも宜しからずとて今歳宝永六年六月に此社の神庫に献納し、益軒の記をも和琴に添へて奉る。又瀧麿自ら作れる琵琶をも同じく献し奉れり。 此神社汚穢不浄を忌む事素より神託ありて、何れの神社よりも忽に御とがめを蒙りし事歴然として人皆知れる所なり。故に神社修繕の時匠工傭役に至るまで物忌を専にす。唯一の社となりし後は毎春いよいよ是を防ぎ守ること厳重なりき。就中五月廿八日より六月二日の岩戸開までの間、八月朔日より同十八日御祭までの間は神人等専潔斎し民家卑賎の輩までも、凡此神事にあつかる限り各物忌に怠る事なし。大宮司毎徳の世に至つて益法令を厳にしたり。凡此御宮所は南に向ひて天ヶ岳東に聳え、御社に対し光壽寺ヶ嶽坤に高し、乾の方に大口浜潔くして自ら参詣の人の御祓所にかなへり、是を汐斎浜といふ。御社の辺に桜多し。あかねさす影長閑けき春を迎へては色も匂も心よく、所せきまで満ち開け神徳の馨はしきを四方に伝へて人に薰じ、和ける光の崖にましける御恵もげにいちしるき粧なり。秋の霜の冷なる頃しも千木にさきたち別きて紅葉の色鮮なるも御威の畏き輝を見するためなるべし。四囲の林樾蓊として枝を交へ葉をしき、松柏の秀姿霜後に晩翠を含めり。涼しき風に吟して蕭瑟として聲を発し、さやけき月の前には彫字の光相映す。此境に至れば清景自然に濁穢の心をすすぎ、佳趣たちまちに誠敬の思を生ず。真に神代の昔も面のあたりに見る心地し侍る。すべて此わつかなる霊地にて神秀の鐘れる佳境なればにや、此神もかく此所に顚座しましけん。尚行末の恵久しくて時はかきはに世を守り人をあはれみ給はん事限りなくこそ。 以上縁記貝原益軒高弟竹田定直の撰なり。 [與止姫神祠縁記後序] 天下之理有常有変。常焉者坦夷而明顕。其理易知矣。変焉者険怪而隠晦。其理難暁矣。故知其常焉。雖衆人幾可企及也。知其変焉。非知者或難及也。如後世所謂神怪之説固多偽妄然。豈可因其偽妄者。而併其真実者。皆以為無乎。蓋天下無理外事。故世之真有神怪者。是陰陽之変化。鬼神之幽微。理之変。而天地之間必有之理。程子所謂此亦一種道理。不可以常理妄推也。苟知常而不知変。則天下之理恐有所不能窮盡。況於陰陽難測者乎。衆人見理不周偏。故語之以非常則大率以為虚妄。此偏狭者所以蔽固也。豈知是理之変。而復非理外事乎。然則窮理之道。多見多聞功不可廃而巳矣。且天地之間。気運之開也。有漸有速。是以天下之事物。晦于古而顕于今者往々有。豈止事者而巳耶。抑雖神霊之著顕。復有待世者。如本州志摩郡櫻井村與土姫明神降臨復然矣。其初顕見也孔霊異。其福応最盛。其神譯断人休咎豫示人以吉凶禍福也無所詿誤。令人驚嘆焉。其地明神之所窟宅最霊勝。陰陽之精凝集久矣。鐘秀気於此。陰晦而不顕。一旦忽発見。是気運之漸開以時也。中庸曰。国家将興必有禎祥。左伝曰。国将興明神降之。是明神之所以降者吾邦将興之兆也。苟不燃何其霊異之発見如此耶。大凡此神祠之有霊也不可弾記也。故民之疾病。横逆之災。歳之水早。風雨之禍。皆於此乎縈之。祈褫穣災皆憑依于此焉。大凡万物之所以成者。神有之助其功於幽。故報之以祭者誠有以也。浦氏毎成者曩歳為彼祠之大祝総掌。其祭祀且為闔国祝人之長。其子毎春其孫毎徳世々相継于其家職而不絶矣。皆於京師伝承於卜部氏之秘訣。毎徳亦甞之上都蒙恩命叙従五位下。任主殿頭。且為櫻井大宮司。兼神主職可謂幸栄也。但是吉田二位兼敬卿之所執奏也。余彼祖彼父為旧交矣。於今之毎徳最友善。索余記此神霊肇基之所由起。余今玆齢既逾中壽。昏耄之至百事廃忘。不克応其索。於此余之畏友竹田定直。定直為之編録而成矣。余繙閲之。記其事精詳。作詞質直。循々有序。須伝諸俊世而為佐證矣。毎徳復乞余叙其後。余謂定直之所記既明備不可損益矣。且聞毎徳能修其職而不怠廃。余復何言乎。然余甞聞之。舜之命伯夷。事神之道曰。夙夜惟寅直哉惟清。又聞凡動天地感鬼神之道。惟誠与敬耳。是以能知神人感通之理。則心之誠敬不容少忽矣。余感毎徳之世々為明神致忠誠。故不能峻拒其所索。於是乎力疾漫作贅言而巳矣。 宝永七祀八月十八日 筑前州後学九々翁 貝原篤信敬叙 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 明治三年十二月十五日社伝旧記之趣書記言上書の内より抜書 一、〼燈の御下賜 筑前国志摩郡櫻井村與土姫神社へ 御紋付御〼燈一雙被進付之者也 禁裏御所 明治三年丙戌四月十八日 大江姓荒川 正副 取次 二、藩代々の御寄附其他 忠之朝臣の代は御祭の外正、五、九月には能興行被仰付との旧記あり。 寛永十二年八月十八日より流鏑馬永代興行被仰付米一石八斗御渡に相成候事。 忠之朝臣御心願成就に依て寛永九年六月より神馬御奉納あり、飼料として大豆九俵二斗六升二合御寄進に相成候処、去子の年天災半額に御減に相成候事。 御供米一石八升永代御寄進之処、同前半減に相成候事。 寛永二年九月十一日大神宮伊勢、本宮御作法之通り御改造に相成、正保二年正月六日御改造之節より御社地二ヶ所に御定め相成候事。 宝暦五年十一月より御祭庭御賑合芝居見せ物一七日永代御免に相成候事。 浦毎春の時光之公へ申上、寛文十二年に悉く仏殿御取除に相成候事。 綱政公より(元禄四年九月十一日)始めて御代参有之、同正五九月十八日御代参有之、同十四石の鳥居一基忠之公御建立。 潮斎浜木の鳥居朽損に付宝暦二年八月二日継高公石の鳥居御建立に相成、其後大風にて破損し萬延元年六月長溥公御再建に相成候事。 石燈籠二雙寛永九年九月忠之公御寄附相成候事。但龍宮御室前への銘を刻せり。 同一雙宝暦二年九月二日継高公御寄附、及燈明料として丁銀一貫二百匁永代御寄附に相成候処子の年より半減相成候事。 大神宮鳥居の御額文字 吉田家より拝請により高貴の方の御宸筆と承る。 三、藩公よりの書類 志摩郡櫻井村御社領於其村二百石令寄進所如件 承応二年五月朔日 筑前守花押 浦権頭太輔 四、御寄附山林に関するもの 一、字伊勢左かわの山 二、同右の山 三、光壽寺山 四、同尾 五、〼おいて山 六、〼馬塲左の尾 七、同右の尾 八、小平次丸山 九、大口浜 十、床石 十一、鼬山(中に川あり) 合計二万七千三百八十五坪 右之山自今以後山林彌立茂様制之至後々年宮之及破損之時令修造大宮司以指図材木可伐用之旨、依仰證書文如件 寛文四年八月二十三日 村山角左衛門 奥膳善右衛門 竹森新右衛 大宮司権頭太輔殿 五、元禄十一年末十一月廻廊楼門舞台修覆之許可あり八木三百俵御寄附相成。 六、享保十四年九月御造営御定書 本殿渡殿拝殿議所岩戸 説教所末社三ヶ所楼門廻廊連歌屋御供屋神馬屋同棚舞台惣囲之練堀岩戸脇板堀山の手柵定注連囲二ヶ所石手水鉢之覆二所石橋一ヶ所鳥居一基且又大神宮本社串門拝殿玉垣木鳥居一基石雁木右被仰付候事 右之通今度会議之上達 御耳相窮候寺社中へ夫々以書付被申渡之至後年違乱無之様に可被相心得候以上 享保十四年九月 加藤半右衛門 立花勘左衛門 吉田六郎太夫 浦上三郎兵衛 大音六左衛門 郡正大夫 寺社奉行中 一〇、神社明細簿内の写 四千二百二十二番地 一、村社櫻井神社 祭神 神直日神 八十柱津日神 大直日神 相殿祭神八社。西宮社、久保社、末松社、八幡宮、熊野社、谷熊野社、木浦社、天満宮。 一、岩戸神社。同三柱神、相殿 大海津見神 海津見善男善女神 一、春日神社。天児屋根、武御雷神、経津主神、姫大神。相殿、楠神社、彦山神社、大山祇神、熊野神社。 一、八坂神社。素盞嗚尊、櫛稲田姫命。相殿、鎮魂大柱大神。 一、八幡宮。息長足姫命、誉田別天皇、武内宿禰命。 一、金刀比羅神社。大物主命、崇徳天皇。 一、天照皇大神宮。相殿、豊受大神。 右寛永九年忠之公御建立 神宝 一、玉冠 一、御縁記二冊 一、御絵図 一、御夢想一軸忠之公自筆 一、鶴の絵及千羽雀の絵 一、唐絵 一、宝剣二振 信国吉次 一、韓剣二振 一、衛府太刀一 一、真太刀王 一、棒鞘太刀二 一、長刀一 一、鎗一 一、金襴一巻 一、蜀紅錦一巻 一、宝石一 一、夜光玉及水晶玉 一、牛王玉及馬角二 一、加羅木八匁 一、万年青二莖 一、三十六歌仙 古法眼画 一、矢襖一 一、陣屏風一 一、神鏡二 清水光政 藤原光長 作 一、細工物三 一、竿一 銀製 一、金銀幣各二流 明治維新後藩命により還納 右寛永年中忠之公御奉納 楽器 一、和琴一 一、琴一 一、琵琶一 一、鐘鼓一 一、太鼓一 一、神楽太鼓 一、笛二 右同前忠之公奉納 |
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公開日 | 2015/06/07 |
更新日 | 2015/06/07 |
その他の写真
神社参詣道入口風景 |
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楼門前狛犬(阿形) |
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楼門通路 |
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拝殿飾り彫刻 |
岩戸宮正月玉串参拝の由来と作法 |
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拝殿内 |
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拝殿内 |
社殿全景 |
社殿全景 |
社殿全景 |
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境内神社、櫻井猿田彦神社正面 |
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猿田毘古大神 |
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境内神社、岩戸宮 |
境内神社、岩戸宮 |
境内神社、岩戸宮 |
境内神社、岩戸宮 |
境内神社、八幡宮 |
境内神社、金比羅神社 |
二見ヶ浦遥拝所 |
筑前二見ヶ浦桜井夫婦岩模型 |
二見ヶ浦夫婦岩鳥居 |
二見ヶ浦夫婦岩鳥居 |
二見ヶ浦桜井夫婦岩 |
二見ヶ浦桜井夫婦岩 |
二見ヶ浦夫婦岩鳥居 |
二見ヶ浦櫻井神社社号標 |
櫻井神社浜鳥居 |