当地は「勝浦」地名発祥の地です
「勝浦」神功皇后、新羅にかちて帰り この地にあがらせ給う。故にかつらと名付くと云う。貝原益軒(1630~1714)の「筑前国、続風土記」より
今から約1800年以上前の西暦200年頃、仲哀天皇と神功皇后(第15代応神天皇の母)が都(奈良)から少数の家来を連れて三韓(新羅)征伐のために当地勝浦へやって来ました。
ここで宗像水軍や勝浦人を結集し征伐の戦略を練り、203年桂嶽(勝浦嶽)へ登り必勝祈願を行い、205年勝浦浜(桂浜)と神湊から対馬海神族や宗像水軍を水先案内人にして、神功皇后、武内宿禰等(仲哀天皇は死亡したため出兵出来ず)が征伐へ出兵しました。
勝利を納め206年に帰還し、この年瀬戸内海を通り都へ凱旋する路々で、ついて行った勝浦人たちに褒美(論功行賞)としてそれぞれの土地が与えられ、与えられた者が「阿波勝浦」「那智勝浦」「(高知)桂浜」等々、全国10ヶ所以上に「勝浦」の名がつけられたと伝えられています。
当時、漢字はなく呼び名がそれぞれ違っており「かつうら」「かつら」「かちうら」と呼ばれその後漢字が根ついた頃「勝浦」「桂」になったと思われます。当地も、今でも「勝浦浜」を「桂浜」と言ったり「勝浦嶽」を「桂嶽」と呼び区別がついていません。「勝浦」は勝った浦「勝島」は勝ったところにある島「勝浦浜」は勝った浦の浜「神湊」は神功皇后の湊と伝えられています。
私たち、勝浦に住む者は先人が残したロマン溢れるこの宝(財産)をシッカリ、後世に引き継いで行くことが使命であると思ってやみません。
西暦2008年(平成20年)7月 勝浦古代ロマンを語る会
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