御由緒 竈門神社
御祭神 玉依姫命
御祭神玉依姫命は神武天皇の御父君日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(旧官幣大社鵜戸神宮の祭神)の后で五瀬命稲飯命、御毛沼命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の御子を生み給い、背の君を授け奉り、四柱の御子等のご養育と建国の大業に御心を悩ませ給う。
神武天皇の御東征に際しては、御東征に先立ち、宗像三女神(宗像大社の祭神)志賀の神様等にご協議なさるため、日向の国よりお興しめされ給う。その帰途筑紫蒼冥の地、霊気長く久しく篭る竈門山(現宝満山)に登り給い御東征の成就祈願と鎮国心身の御修業のため、この山に永遠に鎮まられ給う。実に竈門神社は造化神霊の宿れるところにして千古の霊蹟、皇宗母神の降臨の地である。
当神社の御創建は旧鳥居にはその銘に文化六年二月再建氏子中とあり約一六七年余りを経ていた参道の大鳥居が昭和五十一年九月の記録的な大台風にて倒壊す。依って氏子中にて元の位置に再建す。昭和五十一年十二月吉日と刻してある。
文化六年に再建されたことから考えても当竈門神社は約三百数十年前には既にこの地に社が建立されていたものと思考するのが自然である。尚平成四年八月の調査では当神社拝殿正面の鈴の上段に組み込まれている募股(彫刻された木板)の底面には鮮明に拝殿再建が記録されている。
「明治十五年午〼一月上旬 御原郡三沢村字古賀名宝宮拝殿向拝再建 旧十二月七日出来」
再建に携わった宮大工の氏名等の記載は次の通り。
「久留米荢扱川六丁目西横、町野茂一、寛敬之造者也 歳五十二少」
昭和六年宝満宮竈門神社の事蹟によれば「三井郡三国村大字三沢字東古賀 祭神 玉依姫命無格社竈門神社 例祭 十二月八日」とあり。
当古賀の地は夏は雨が多く、冬は雪が多いところで働く人々の勤勉さとあいまって米麦等の収穫が多く、五穀豊穣の地であります。また地震や大雨等による災害の心配は全くといってよいほどありません。水不足と言うこともありません。尚三沢周辺は平地より少し高い(海抜二十数米)ところにあり、乾燥が早いので疫病も流行りにくいと言うようにこの地は良い環境に恵まれたところであります。古くからこの地に居住していた先祖の方々がこの良い環境は「宝満の山や川により造り出される自然の恵みである」ということから宝満山の山頂に祀られている竈門神社の分霊を当地の守護神として勧請、神社の建立がなされたものと思われます。
御例祭 毎年十二月八日
平成四年九月吉日 古賀竈門神社氏子総代
竈門神社祭事暦
一月一日 歳旦祭(元旦祭)
宮司による元旦祭が行われます。氏子以外でも自由に参加できます。
六月下旬頃 春祭(おこもり)
夏の疫病にかからぬよう、又農作物が豊作であるようにと、氏子が集い氏神様にお祈りする祭りです。
七月十日 夏祭(よど)
御祭神玉依姫の縁日の前夜、神社に氏子並びに子供達が集い、お灯明をともし農作物の生長や悪病退散のお祈をする祭りです。
九月三十日 火祭(堂篭り)
氏神様が出雲に旅立つ日。境内で生木を燃やし、太鼓をたたいて氏神様を送るため宮篭りする祭りです。(現在は火災予防のため中止しています。)
十月上旬頃 秋祭(おこもり)
春祭りで祈願した疫病退散、農作物の収穫のお礼をする祭りです。
十二月八日 例祭(お座)
元来日本民族は農耕民族と云われ、人々は神を中心として集落を形成し農耕していた。氏子全員が集い五穀豊穣等を神にお祈り又感謝する集りを神座と称し交流の場としたのがお座の起源と云われています。
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