[1791] 多賀神社(たがじんじゃ)
神社№  1791
神社名  多賀神社(たがじんじゃ)
神社別名  
参拝日  未参拝
再訪日   
社格   県社
その他社格 
ご祭神   
由緒等   
ご朱印   
鎮座地区 直方市
郵便番号 822-0016
所在地  直方市直方701
地図座標 33.743701,130.725271
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 多賀神社 [A00-0314]
【所在地】 直方市大字直方字多賀町
【祭神】 伊邪那岐神、伊邪那美神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
【由緒】 当社は古社にして中古は防州大内氏の祭る所、同氏の幕下当郡龍ケ岳の城主杉権頭連並なるもの社務を指揮せし由当時は神号を妙見大明神と称せり其の後直方領主黒田東市正隆政妙見神社を再建す貞享年中黒田侍従光之之本社拝殿及び末社等を改築す元禄五年領主黒田伊勢守長清妙見山に城を築くを以て社殿を山の北に移す即ち今の境内是なり其時勅許により神号を多賀大神と改む旧藩中国内十五社の一たり明治五年十一月三日村社に定めらる。
尚社説に述ぶる所精細にして次の如し。創立の年代は太古に亘るを以て詳ならざれども、元正天皇養老三年多治比真人、縣守宿願により鞍手郡司某をして再建せしめたること旧記に明なれば、その再建以来既に千二百余年の星霜を経たり。社号。旧記に伊邪那岐尊、国土万物を生成し給ひ天に復命申し給ふと参登り座す時に、此山に寄来給ひぬるに依りて、御山を日若の山と称し、御社号を日若の宮多賀大神と崇敬し奉り、祭礼をも日若祭と云ひ習はしたり。然るを聖武天皇天平年中、僧行基東蓮寺を建立し両部となりしより、妙見大明神と称へたるが、後元禄五年時の神職青山敏文、藩主の命を奉じ上京して禁裏に願ひ奉り、御許を得てもとの多賀大神と改称し奉る。
親王武将及び黒田藩主の崇敬。正平十三年征西将軍宮懐良親王大願主とならせ給ひ、菊池武光をして資を献ぜしめ、社殿廻廊を改築せしめらる。足利の季世に至りへ兵火に罹りしを以て、天文十三年大内義隆当郡龍ケ嶽の城主杉権頭連並をして再建せしむ。寛永十一年黒田長政の第四子隆政、直方藩主に封ぜられるるや、産土大神と崇め奉り、寛永十二年六月本殿並に拝殿以下建立あり。隆政逝去の後、本藩主光之貞享三年四月更に本社以下末社三社を改築し仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を合せ祭り、数町に渉る祭祀田の寄進をなし、其の子長清元禄の初年直方藩主を継ぎ、同四年神殿拝殿御供屋神厩楼門鳥居末社に至るまで改築し、尚久しく中絶の神幸を再興、神楽能楽金銀具足楽器類等を屢次奉納し、茲に於て社域の内外悉皆輪奐の美を加へたり。爾来歳月巡りて社殿昇格し今日に及びしが、昭和十一年以来本殿以下付属建物一切の大改築工事実施中に属せり。(写真は改築の社殿廻廊の一部)
【特殊祭事】 古来当社は、国運隆昌命運壽子孫繁栄を守護し給ふ神として〼に世に喧伝せらるる所、就中隔年執行の神幸式(十月十三日夜より十五日暁に至る)は特に著名にして、金蓋奉戴の神馬の渡御は近国に稀なるを以て、遠近の奉拝者は社域市街に立錐の余地なく寔に古今の盛儀たり。又春季三日間の祭を擲桃祭と称へ、特に四月十四、十五の両日は御祭神の故事に慣ひ桃投げの行事を行ふ。
【例祭日】 十月十五日
【神饌幣帛料供進指定】 明治四十年一月十九日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿、廻廊、境内神社四社、社務所、手水舎、社名石、神輿庫、神楽殿、兼能楽殿、神馬舎、絵馬殿、制札、楼門
【主なる宝物】 縁起一巻、古文書一巻、扁額二個、棟札七枚、鏡一面、筒守一個、剣、太刀十振、絵馬八扁、其他
【境内坪数】 一万三千二百七十四坪
【氏子区域及戸数】 直方市、大字直方 約二千四百戸
【境内神社】 天満宮(菅原道真公)、貴船神社(倉龗神)、須賀神社(素盞嗚命、稲田姫)、稲荷神社(倉稲魂神)、金刀比羅神社(棚機神、天織女神、崇徳天皇)、蛭子社(蛭子命)
コメント  
公開日   
更新日   
▲TOP