【社名】 老松神社 [A00-0337]
【所在地】 嘉穂郡桂川村大字土師字仁連
【祭神】 大国主神、大物主神、事代主神、菅原神、吉祥女
【由緒】 社伝に大国主神は往古より鎮座と言ふも其年代詳ならず大物主神は其後合祀せる所なるべきも亦年代詳ならず菅原道真公吉祥女は万寿元年当地太宰府天満宮領となりしとき合祀せるなるべしと言ふ尚諸書に載する所及び棟札の存するものを左に書載す。
筑前続風土記拾遺に言ふ、往古出雲国より土師氏の人来りて初て隣村平塚村に居住し後爰に移住して近村を掌りし故村名を土師と言ひ其宅地を御所原と言ふ由語り伝ふ又云く老松宮と称して正殿に大己貴命を祭れることいぶかし故に考るに出雲国人爰に来住せる由云伝へたれば若くは彼国杵祭の大社を勧請せしにはあらざりしか大社は大己貴命なればなり云々又云く扨後に此村太宰府天満宮の神領となりし故大己貴命を祭れる社の相殿に菅公をも斎き奉りしより自ら社号を老松宮と唱ふるにぞあらん尚能く考ふべし当社古へは繁栄の社にて神田等も多く奉仕の家も数多ありて即ち十二村の産神なりしなり然るに天正年中秀吉公神田を没収せられしより厳重なりし祭祀も漸く衰へて今残る所の三村集ひて形計りの祭祀を執行ふのみなり云々。
太宰府神社旧記に曰く、万寿元年甲子土師庄百十七町二百三十歩寄附云々。
嘉暦三年社殿再建棟札に老松社御殿造営之事右造営之志者為奉祈聖朝外朝御願円満並本寺長史長者領家本新両預所殿御息災延命御子孫繁昌次者為願主下司庄百姓(以下不明)嘉暦三年戊辰(以下不明)
文安四年社殿再建棟札に奉造立老松大明神御宝殿一宇(中略)捨賊施主大檀那土師左馬頭(以下不明)文安四丁卯天黄鐘皆日
文明八年社殿再建棟札に奉再興老松大明神御宝殿一宇(中略)大檀那都督藤原朝臣政尚捨財檀那西郷近江守小野朝臣貞房文明八孟夏十有六日付記筑前続風土記拾遺に云く藤原朝臣政尚は大宰少弐政尚の事なり何れから老松宮と記したるは彼大己貴命の相殿に菅公を祭りし事も古き事なりけらし。
明暦二年社殿再建棟札に奉再興老松大明神御宝殿一宇(中略)大願主林太郎右衛門尉正利于時明暦弐丙申卯月吉祥日
寛文七年拝殿再建棟札に奉再隆社壇一宇(中略)惣戒師釈迦如来(大檀那林太郎右エ門尉正利神主源朝臣西田善二郎安貞)(中略)寛文七年丁未暦五月如意日、付記林家は福岡藩士にして当地方の地頭なりし、貞享五年石鳥居建設銘文に奉建立華表(彌山村土師村内山田村)中社司西田兵部卿貞享五戊辰年六月吉祥日享保元年石鳥居建設銘文に奉建立鳥居一門享保元年丙申九月吉祥日
本社のことは筑前続風土記附録、太宰管内志、福岡県地理全誌等に悉しく載する所あるも筑前続風土記拾遺と大同小異に付略す又社蔵の文書は散逸して今其詳細を識るに由なし。
明治五年十一月三日村社に被定
九月二十三日又は二十四日皇霊祭の当日氏子の当元迄神輿の渡幸あり、此の日は新米を献る。又新らしき果物野菜等十種を川に持参し棚を作りて未明に川祭を執行す。又午前十時には氏子約百五十人一座し、昔の本膳立なりし盛儀の形のみを存して執行ふ。
【例祭日】 一月一日、一月三日、四月二十日、九月二十四日、十月二十八日、十二月二十九日、旧暦一月一日、六月一日、六月二十五日、六月二十九日、七月七日
【神饌幣帛料供進指定】 明治四十一年六月二十五日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿
【主なる宝物】 御神社名額、絵馬
【境内坪数】 千二百三十一坪
【氏子区域及戸数】 七百二十戸
【境内神社】 菅原神社(菅原神)、天神社(菅原道真公)、福部神社(高魂神)、日神社(天照皇大神)、高木神社(高木神)、五穀神社(保食神、玉依姫神)、宇美神社(品陀別尊)、貴船神社(高龗神、大山祇神)、興玉神(猿田彦神)、興玉神社(猿田彦神)、愛宕神社(火産日神)
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