安徳宮の由来
祭神 安徳天皇(治承二年~寿永四年、一一七八~一一八五)
所在地 福岡県筑紫郡那珂川町大字安徳三四八
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘徳子(後の建礼門院)との間に第一皇子として誕生され、第八十一代天皇に即位されましたが、時を経ずして源平争乱が起こり、寿永二年(一一八三)都を追われた平氏一門と共に筑紫に難を逃れられました。
この頃、筑紫の豪族である原田種直は岩戸の庄(現在の安徳台)に館を構えていました。種直は内大臣平重盛の養女の婿で、平氏の信頼厚く、大宰府の少弐という役職に就き権勢を振るっていました。天皇が筑紫に下られた時は、大宰府に程近い種直の館が仮の御所に当てられることになったのです。このことが後に「安徳」の地名の起こりと伝えられています。
このあと天皇は平氏一門と共に四国の屋島に渡られ、再起を計られますが、ついに寿永四年(一一八五)陰暦三月二十四日、壇ノ浦で源義経の軍に破れ、平氏の滅亡の時、祖母の二位尼(清盛の妻時子)に抱かれ入水されました。(平家物語・郷土誌那珂川より)
この安徳地区では、僅か八歳の短いご生涯を終えられた幼少の安徳帝を悼み、祠を奉ったのがこの地の「安徳宮」の起源と伝えられ、また、新暦の四月二十四日のご命日には「天皇さまごもり」が現在に至るまで綿々と引き継がれて安徳区民により執り行われています。
安徳区
那珂川町教育委員会
|
|